小部経典

3:ウダーナ

8.8. ヴィサーカーの経(78)

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティに住しておられます。東の園地にあるミガーラ・マートゥの高楼(鹿母講堂:ミガーラの母のヴィサーカーが寄進した堂舎)において。さて、まさに、その時、ミガーラの母のヴィサーカーの、愛しく意に適う孫が、命を終えたのです。そこで、まさに、ミガーラの母のヴィサーカーは、濡れた衣、濡れた髪で、朝も早くから、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ミガーラの母のヴィサーカーに、世尊は、こう言いました。

 「ヴィサーカーさん、さて、いったい、どうして、あなたは、濡れた衣、濡れた髪で、ここへと近づいて行くのですか――朝も早くから」と。「尊き方よ、わたしの、愛しく意に適う孫が、命を終えたのです。それで、わたしは、濡れた衣、濡れた髪で、ここへと近づいて行くのです――朝も早くから」と。「ヴィサーカーさん、あなたは、サーヴァッティに人間たちがいるかぎりの、それだけ〔の数〕の、子たちやら、孫たちやらを、求めますか」と。「世尊よ、わたしは、サーヴァッティに人間たちがいるかぎりの、それだけ〔の数〕の、子たちやら、孫たちやらを、求めます」と。

 「ヴィサーカーさん、では、どれだけ多くのサーヴァッティの人間たちが、毎日、命を終えますか」と。「尊き方よ、十者でさえも、サーヴァッティの人間たちが、毎日、命を終えます。尊き方よ、九者でさえも……。尊き方よ、八者でさえも……。尊き方よ、七者でさえも……。尊き方よ、六者でさえも……。尊き方よ、五者でさえも……。尊き方よ、四者でさえも……。尊き方よ、三者でさえも……。尊き方よ、二者でさえも、サーヴァッティの人間たちが、毎日、命を終えます。尊き方よ、一者でさえも、サーヴァッティの人間たちが、毎日、命を終えます。尊き方よ、サーヴァッティは、命を終える人間たちから離れられません」と。

 「ヴィサーカーさん、それを、どう思いますか。あなたは、また、いったい、いつ、どこで、あるいは、濡れていない衣でいることに成りますか、あるいは、濡れていない髪でいることに成りますか」と。「尊き方よ、まさに、これは、ありえないことです。尊き方よ、わたしには、〔もう〕十分です。それだけ多くの、子たちやら、孫たちやらは」と。

 「ヴィサーカーさん、まさに、彼らに、百の愛しい者がいるなら、彼らには、百の苦しみがあります。彼らに、九十の愛しい者がいるなら、彼らには、九十の苦しみがあります。彼らに、八十の愛しい者がいるなら、彼らには、八十の苦しみがあります。彼らに、七十の愛しい者がいるなら、彼らには、七十の苦しみがあります。彼らに、六十の愛しい者がいるなら、彼らには、六十の苦しみがあります。彼らに、五十の愛しい者がいるなら、彼らには、五十の苦しみがあります。彼らに、四十の愛しい者がいるなら、彼らには、四十の苦しみがあります。彼らに、三十の愛しい者がいるなら、彼らには、三十の苦しみがあります。彼らに、二十の愛しい者がいるなら、彼らには、二十の苦しみがあります。彼らに、十の愛しい者がいるなら、彼らには、十の苦しみがあります。彼らに、九の愛しい者がいるなら、彼らには、九の苦しみがあります。彼らに、八の愛しい者がいるなら、彼らには、八の苦しみがあります。彼らに、七の愛しい者がいるなら、彼らには、七の苦しみがあります。彼らに、六の愛しい者がいるなら、彼らには、六の苦しみがあります。彼らに、五の愛しい者がいるなら、彼らには、五の苦しみがあります。彼らに、四の愛しい者がいるなら、彼らには、四の苦しみがあります。彼らに、三の愛しい者がいるなら、彼らには、三の苦しみがあります。彼らに、二の愛しい者がいるなら、彼らには、二の苦しみがあります。彼らに、一の愛しい者がいるなら、彼らには、一の苦しみがあります。彼らに、愛しい者が存在しないなら、彼らには、苦しみが存在しません。彼らは、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れ、葛藤なき者たちである、と〔わたしは〕説きます」と。

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 「それらが何であれ、世における、無数なる形態の、憂い、あるいは、嘆き、あるいは、苦しみ――これらは、愛しいものを縁として出現する。愛しいものが存在していないとき、これらは、〔世に〕有ることがない。

 彼らにとって、どこであろうと、世において、愛しいものが存在しないなら、それゆえに、まさに、彼らは、憂いを離れた安楽の者たちである。それゆえに、憂いなく〔世俗の〕塵を離れる〔境地〕を望んでいる者は、どこであろうと、世において、愛しいものを作るべくもない」と。

 〔以上が〕第八〔の経〕となる。