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8 テーラガーター
13 十三なるものの集まり
第一の章
13.1. ソーナ・コーリヴィサ長老の詩偈
彼は、アンガ王の臣下として、国土において高みにのぼった者として有った。〔まさに〕その、ソーナ(人名)は、今日、諸々の法(教え)において高みにのぼった者であり、苦しみの彼岸に至る者である。
五つ〔の束縛〕(修行者を欲界に縛る五つの束縛)を断つように。五つ〔の束縛〕(修行者を色界と無色界に縛る五つの束縛)を捨棄するように。くわえて、また、五つ〔の機能〕(信・精進・気づき・心の統一・知慧)を修めるように。五つの執着(貪欲・憤怒・迷妄・思量・見解)を超え行く比丘は、「激流を超え渡った者」と呼ばれる。
傲慢で〔気づきを〕怠り、外のことに願望ある比丘の、戒、〔心の〕統一(定:三昧の境地)、そして、知慧は、円満成就に至らない。
まさに、その為すべきことであるが、〔それは〕捨てられ、いっぽうで、為すべきでないことを為すなら、傲慢で〔気づきを〕怠る彼らの、諸々の煩悩は増え行く。
しかしながら、彼らに、善く努め励み、常に、身体の在り方(時々刻々の身体の状況)についての気づき(念)があるなら、彼らは、諸々の為すべきことを常に為す者たちであり、為すべきでないことには親しまない。気づきと正知の者たちの、諸々の煩悩は〔自ずと〕滅却に至る。
真っすぐな道が告げ知らされたなら、行け――退くことがあってはならない。自己によって自己を叱咤し、涅槃へと〔歩を〕運ぶように。
〔わたしが〕精進に励み過ぎたとき、世における無上なる教師にして眼“まなこ”ある方(ブッダ)は、琵琶の喩え(琵琶は、弦を張り過ぎても弛め過ぎても、良い音は出ない)を用いて、わたしに、法(真理)を説示した。彼の言葉を聞いて、わたしは、〔覚者の〕教えに喜びある者として住した。
〔わたしは〕最上の義(目的)を得るために、〔心の〕止寂を実践した。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。
離欲〔の境地〕を信念したなら、しかして、心の遠離を〔信念したなら〕、加害〔の思い〕なきを信念したなら、しかして、執取〔の思い〕が滅尽したなら――
渇愛の滅尽を信念したなら、しかして、心の迷妄なきを〔信念したなら〕、〔認識の〕場所(処:認識対象としての色・声・香・味・触・法)の生起を〔あるがままに〕見て、心は、正しく解脱する。
彼には、正しく解脱した寂静心の比丘には、為したことの蓄積(業の蓄積)は存在せず、〔もはや〕為すべきことは見い出されない。
一なる堅き巌が、風に動かないように、このように、諸々の形態(色:眼の対象)、諸々の味感“あじわい”(味:舌の対象)、諸々の音声(声:耳の対象)、諸々の臭香“におい”(香:鼻の対象)、そして、諸々の接触(触:身の対象)は、〔その〕全部が、〔そのような者の心を動かさない〕。
諸々の好ましい法(事象)は、さらには、諸々の好ましくない〔法〕も、そのような者の〔心を〕動かさない。束縛を離れ、〔真実に〕安立した、彼の心は、しかして、〔物事の〕衰微を〔あるがままに〕随観する。ということで――
……ソーナ・コーリヴィサ長老は……。
十三なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。
そこで、摂頌となる。
〔しかして、詩偈に言う〕「ソーナ・コーリヴィサ長老が、まさしく、独り、大いなる神通ある者としてあり、十三なるものの集まりにおいて、しかして、ここに、十三の詩偈がある」と。