>小部経典
8 テーラガーター
14.2. ゴーダッタ長老の詩偈
また、善き生まれの賢〔馬〕が、諸々の荷を結び付けられ、荷に耐えつつ、過度の重荷で乱れながらも、〔装着された〕引き具を過ぎ行くことがないように――
このように、彼らが、水に〔満ち溢れた〕海のように、知慧に満ち足りていながらも、他者たちを軽んじることがないなら、〔これは〕生ある者たちにとって、まさしく、聖なる法(真理)である。
〔輪廻の〕時において時の支配を得た者たち、〔迷いの〕生存において生存の支配に赴いた者たち――彼ら、若くある人たちは、苦を受け、この〔世において〕、憂い悲しむ。
楽しみの法(事象)によって傲慢になった者たち、苦しみの法(事象)によって卑屈になった者たち――愚者たちは、〔物事を〕事実のとおりに見ることなく、〔楽しみと苦しみの〕二者によって打ちのめされる。
しかしながら、彼らが、苦しみにおいて、そして、楽しみにおいて、〔その〕中間において、貪愛〔の思い〕を超え行ったなら、彼らは、インダ(インドラ神)の杭(城門に立てられた標柱)のように安立した者となる。彼らは、傲慢でも卑屈でもない。
まさしく、まさに、利得に〔汚され〕ず、利得なき〔汚され〕ず、名声に〔汚され〕ず、かつまた、栄誉に〔汚され〕ず、彼らは、非難と賞賛に〔汚され〕ず、かつまた、苦しみと楽しみに〔汚され〕ない。
彼らは、蓮〔の葉〕にある水の滴“しずく”のように、一切所に汚されない。一切所に楽しみある勇者たちであり、一切所に敗者ならざる者たちである。
〔まさに〕その、法(正義)による利得なきと、〔まさに〕その、法(正義)にかなわない利得とがあるとして、もし、それが、法(正義)にかなわない利得であるなら、法(正義)にかなう利得なきのほうが、より勝っている。
覚慧少なき者たちの名声と、〔まさに〕その、識者たちの名声なきとがあるとして、まさしく、識者たちの名声なきのほうが、より勝“まさ”っている――覚慧少なき者たちの名声ではなく。
思慮浅き者たちによる賞賛と、〔まさに〕その、識者たちによる非難とがあるとして、もし、それが、愚者からの賞賛であるなら、まさしく、識者たちによる非難のほうが、より勝っている。
欲望〔の対象〕から作られる楽しみと、遠離〔の境地〕の苦しみとがあるとして、もし、それが、欲望〔の対象〕から作られる楽しみであるなら、遠離〔の境地〕の苦しみのほうが、より勝っている。
法(正義)ならざるによる生と、〔まさに〕その、法(正義)による死とがあるとして、もし、その、法(正義)にかなわない〔生〕を生きるなら、法(正義)にかなう死のほうが、より勝っている。
彼ら、欲望〔の対象〕と怒り〔の思い〕を捨棄する者たち、種々なる生存について寂静心ある者たち――〔彼らは〕依存なき者たちとして、世を歩む。彼らに、愛しいものと愛しくないもの(愛憎の対象)は存在しない。
〔七つの〕覚りの支分(七覚支)を修めて、〔五つの〕機能(五根)、および、〔五つの〕力(五力)を〔修めて〕、最高の寂静を得て、煩悩なき者たちは、完全なる涅槃に到達する。ということで――
……ゴーダッタ長老は……。
十四なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。
そこで、摂頌となる。
〔しかして、詩偈に言う〕「まさしく、しかして、レーヴァタ(カディラヴァニヤ・レーヴァタ)、ゴーダッタ、それらの二者の大いなる神通ある長老たちがあり、十四なるものの集まりにおいて、しかして、ここに、二十八の詩偈がある」と。