>小部経典
8 テーラガーター
16.3. テーラカーニ長老の詩偈
〔わたしは〕長夜にわたり、法(教え)を弁別している、まさに、熱情ある者であるが、沙門や婆羅門たちに問い尋ねつつも、〔ついに〕心の静かさを得なかった。
「誰が、〔まさに〕その、世において彼岸に至った者なのだろう。誰が、不死への沈潜(涅槃)を得た者なのだろう。最高の義(勝義:涅槃)を識知させてくれる、誰の法(教え)を、〔わたしは〕受け容れるのだろう。
餌を食べつつ釣針の内に掛かった魚のように、〔わたしは〕存した。大いなるインダ(インドラ神)の索縄に結縛された阿修羅のヴェーパチティのように、〔わたしは存した〕。
その〔索縄〕を、〔わたしは〕引く。この憂いと嘆きから、〔わたしは〕解き放たれない。誰が、わたしの結縛を解き放ち、世において、正覚〔の境地〕を知らせてくれるのだろう。
『〔世界は〕壊れ崩れるもの』と指し示してくれる、誰を――沙門、あるいは、婆羅門を――老と死を運び去ってくれる、誰の法(教え)を、〔わたしは〕受け容れるのだろう。
疑惑と疑い〔の思い〕に拘束され、激昂〔の思い〕と〔その〕力に束縛され、忿怒〔の思い〕を得て意が強情となり、渇望〔の思い〕で〔自らを〕破り裂く〔愚かさ〕を〔見よ〕。
渇愛の弓によって現起し、かつまた、二つの十五(三十の邪見)に束縛された、〔自らの〕胸のうちからなる愚かさを見よ――〔それが〕止住する、というのなら、〔自らを〕壊して〔悩み苦しむ、その愚かさを〕。
諸々の誤った見解を捨棄することなく、未来についての妄想で〔心が〕過敏になった〔愚かさ〕を〔見よ〕――それに貫かれた〔わたし〕は、風に揺らぐ葉のように、〔心が〕動く。
わがもの〔という思い〕は、わたしの内に現起して、すみやかに煮られる(成熟する)。そこに、六つの接触の場所(六触処:眼・耳・鼻・舌・身・意)ある身体が、一切時に流れ行く。
彼が、わたしのために、その矢を引き抜いてくれるとして、〔わたしは〕その医師を見ない。疑惑〔という矢〕を、他の刃によらず、さぐり針によって〔引き抜いてくれる、その医師を〕。
誰が、わたしのために、〔心の〕内部に寄り掛かっている矢を――刃なしで、傷なく、全ての四肢を害さずに、わたしの矢を――引き抜いてくれるのだろう。
まさに、彼は、法(教え)の長たる最勝者、〔心の〕毒素と汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を運び去る者である。深みに落ちたわたしのために、陸地を、しかして、〔救いの〕手を、見せてくれるのだろう。
わたしは、湖沼のうちに存している――塵や泥を運び去ることができない〔深み〕に沈潜した者として、幻想“ごまかし”と嫉妬と激昂と沈滞と眠気に覆われた〔湖沼〕のうちに。
〔心の〕高揚という〔雷鳴〕鳴り響く雨雲を、束縛するものという雷雲を、諸々の貪欲〔の思い〕に依存した諸々の妄想が、運び手たちとなり、悪しき見解を運び来る。
諸々の〔渇愛の〕流れは、一切所に流れ行く。〔貪欲の〕蔓草は、芽生えては止まり住む。誰が、それらの流れを防護できるのだろう。まさに、誰が、その蔓草を断ち切るのだろう。
幸いなる者よ、諸々の流れの防護となる境を作り為せ。〔激流が〕無理やり木を〔切り倒す〕ように、意によって作られる流れが、おまえを切り倒すことがあってはならない」〔と〕。
このように、恐怖〔の思い〕が生じ、此岸から彼岸を求めているわたしにとって、聖賢の僧団に親しまれ、知慧という武器ある、教師(ブッダ)は、救いの者として〔有った〕。
清浄で、善き至達ある梯子を、堅固で、法(真理)の真髄によって作られる〔梯子〕を、〔激流に〕運ばれつつあるわたしに与え、しかして、〔教師は〕「恐れてはならない」と説いた。
〔わたしは〕気づきの確立(念住・念処)という高楼に登って、〔あるがままに〕注視した。すなわち、かつて〔わたしが〕身体が有ること(有身)に喜びある者と思い考えていた、〔まさに〕その人々を。
しかして、舟に乗る道を見たとき、〔もはや〕自己を確立せずして、〔わたしは〕最上の沐浴場を見た。
自己から現起し、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)によって増加した矢――これらの転起なきために、〔教師は〕最上の道を説示した。
長夜にわたり悪しき習いとなり、長夜にわたり止まり住んだ、わたしの〔悪しき〕香りを、覚者(ブッダ)は除き去った――〔心の〕毒素と汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を運び去る者として。ということで――
……テーラカーニ長老は……。