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8 テーラガーター
1 第一の章
19.1. ターラプタ長老の詩偈
いったい、何時、わたしは、伴侶なき独一者となり、諸々の山窟に住むのだろう。一切の生存を「常住ならざるもの(無常)である」と〔あるがままに〕観察するのだろう。それは、わたしにとって、このことは――それは、いったい、何時のことに成るのだろう。
いったい、何時、わたしは、破れた布きれを〔身に〕付ける、黄褐色の衣(袈裟)の牟尼となり、我執なく、依存〔の対象〕なく、まさしく、そのように、貪り(貪)と、怒り(瞋)と、迷い(痴)を打ち砕いて、山腹に赴き、安楽の者として住むのだろう。
何時、この身体を、常住ならざるものと、殺と病の巣と、死と老に悩まされるものと、〔あるがままに〕観察しながら、恐怖〔の思い〕を離れた者となり、独り、林に住むのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。
いったい、何時、わたしは、恐怖〔の思い〕を生み、苦しみをもたらし、多くの種類に随転する、渇愛の蔓草を――知慧によって作られる鋭い剣を掴み取って――断ち切って住むのだろう。それはまた、何時のことに成るのだろう。
いったい、何時、知慧によって作られる、聖賢たちの烈火の刃を、即座に取って、獅子坐に〔坐し〕、軍団を有する悪魔を、即座に打ち破るのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。
いったい、何時、わたしは、諸々の集いにおいて、正しくある者たちによって――法(教え)を重んじる、如なる者たちによって――あるがままに見る、〔感官の〕機能に勝利した者たちによって――〔刻苦〕精励の者と見られることに成るのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。
いったい、何時、わたしを、ギリッバジャ(地名・王舎城の別名)において義(道理)を義(目的)をする、その〔わたし〕を、諸々の倦怠や飢えや渇きが、諸々の風と熱が、あるいは、諸々の虫や蛇が、悩まさなくなるのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。
いったい、何時、まさに、その、偉大なる聖賢によって見い出された、極めて見難き四つの真理(四聖諦)という、その〔法〕に、自己が定められた気づきある者となり、知慧によって至り着くのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。
いったい、何時、わたしは、しかして、無量なる、諸々の形態(色:眼の対象)を、諸々の音声(声:耳の対象)を、諸々の味感(味:舌の対象)を、諸々の臭香(香:鼻の対象)を、さらには、諸々の感触(所触:身の対象)を、諸々の法(法:意の対象)を、「燃え盛るものである」と、諸々の〔心の〕寂止(奢摩他・止)に専念する者となり、知慧によって見ているのだろう。それは、わたしにとって、このことは、何時のことに〔成るのだろう〕。
いったい、何時、わたしは、悪口を言われたとして、それを理由に、意が離れる者と成らなくなるのだろう。しかして、また、賞賛されたとして、それを理由に、満ち足りた者と成らなくなるのだろう。それは、わたしにとって、このことは、何時のことに〔成るのだろう〕。
いったい、何時、わたしは、しかして、諸々の薪と、諸々の草と、さらには、諸々の蔓と、これらの〔心身を構成する五つの〕範疇(蘊)を、さらには、無量なる諸々の法(事象)を、まさしく、諸々の内なるものも、諸々の外なるものも、等しきものと〔考量し〕比較できるのだろう。それは、わたしにとって、このことは、何時のことに〔成るのだろう〕。
いったい、何時、わたしに――〔黄褐色の〕衣料(袈裟)を有し、林のなかで、〔かつて〕聖賢たちが行き来した道を行く〔わたし〕に――雨期の黒雲が、新鮮な水を降り注ぐのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。
何時、林のなかの山窟で、冠毛ある孔雀鳥の鳴き声を聞いて、不死〔の境処〕を得るために、奮起して思弁するのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。
いったい、何時、ガンガー〔川〕を、ヤムナー〔川〕を、サラッサティー〔川〕を、パーターラ・キッタ〔の深淵〕を、さらには、ヴァラヴァー・ムカ〔の海溝〕を、禍々しき〔障害〕を、神通によって、沈むことなく超え渡るのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。
いったい何時、戦場を歩む象のように、諸々の欲望の対象(妙欲)にたいする欲〔の思い〕を破り去るのだろう。瞑想(禅・静慮:禅定の境地)に専念する者となり、一切の美しい相(美しく価値があるように見えるもの)を避けるのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。
何時、財ある者たちに責め苛まれ、借金に苦悩する貧者が、〔隠された〕財宝に達して、〔幸せになる〕ように、偉大なる聖賢の教えに到達して、満ち足りた者と成るのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。
多年にわたり、おまえに乞われてきた者として、〔わたしは〕存している。「家に住むこと、このことは、おまえにとって、もう、十分だ(すみやかに出家せよ)」〔と〕。心よ、〔まさに〕その、今や、出家者であるわたしを、おまえは、何を動機として、〔心の〕平静に結び付けないのか(わたしの心は平安を得ない)。
心よ、まさに、おまえに乞われてきた者として、わたしは存しているではないか。「ギリッバジャ(地名・王舎城の別名)には、様々な〔彩り〕の覆(羽毛)ある、宙を行く〔鳥〕たちがいて、彼らは、大いなるインダ(インドラ神)の声(雷鳴)が鳴り響くのに唱和し、林のなかで瞑想するおまえを喜ぶであろう」〔と〕。
家における、しかして、朋友たちを、さらには、愛しい者たちを、親族たちを、世における、遊興の歓楽を、さらには、欲望の対象を、〔その〕一切を捨棄して、このこと(出家)に到達した〔わたし〕である。心よ、しかして、また、おまえは、わたしに満足しない。
この〔心〕は、まさしく、わたしのものである。まさに、おまえは、他者たちのものではない。甲冑〔を身に付ける〕時に嘆き悲しむことが、何になるというのだろう。「この一切は、動揺するものである」と見ながら、不死の境処を望み求めつつ〔わたし〕は、〔家を〕出た。
二足の者たちのなかの最上者にして、〔真理と〕見事に結び付いた〔法〕を説く方(ブッダ)は、調御されるべき人の馭者にして、偉大なる能力ある方(ブッダ)は、「心は、動揺するもの、猿に似ている。貪りを離れないうちは、極めて防護し難きもの」と〔説いた〕。
まさに、諸々の欲望〔の対象〕は様々で、〔蜜のように〕甘美で、意が喜びとし、無知なる凡夫たちが依存する所である。彼らは、さらなる生存(再生)を求める者たちであり、〔迷える〕心に導かれた者たちであり、地獄に捨てられた者たちであり、苦しみを〔自ら〕求める。
「孔雀や白鷺の鳴き声がする森に、豹たちや虎たちに囲まれて住みながら、身体にたいする期待〔の思い〕を捨棄せよ。〔気づきを〕失ってはならない」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。
「しかして、〔四つの〕瞑想(四禅)を、さらには、〔五つの〕機能(五根)と〔五つの〕力(五力)を、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)と〔心の〕統一(定:三昧の境地)の修行を、修めよ。しかして、覚者(ブッダ)の教えにおいて、三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)を体得せよ」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。
「不死〔の境処〕を得るために、出脱〔の教え〕を、一切の苦しみの滅尽という〔不死への〕沈潜を、一切の〔心の〕汚れ(煩悩)を清める八つの支分ある〔聖なる〕道(八正道)を、修めよ」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。
「〔心身を構成する五つの〕範疇(蘊)を、『苦しみである』と、根源“あり”のままに観よ。しかして、それあることから、苦しみを集起させる、〔まさに〕その〔集起の因〕を捨棄せよ。まさしく、この〔世において〕、苦しみの終極を為せ」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。
「『〔一切は〕常住ならざるもの(無常)である。苦しみである』と、『〔一切は〕空である。自己ならざるもの(無我)である』と、しかして、『〔一切は〕悩苦である。屠殺である』と、根源のままに観察せよ。〔迷える〕心の、諸々の意による〔微細な〕想念を破壊せよ」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。
「剃髪し、醜い形姿で、呪い〔の言葉〕を浴び、まさしく、鉢を手にする者となり、家々を行乞せよ。偉大なる聖賢たる教師(ブッダ)の言葉に専念せよ」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。
「自己が善く統御された者と〔成れ〕――道の外れを歩みつつ、家々においては、諸々の欲望〔の対象〕について、執着の意なき者と〔成れ〕――満月〔の夜〕の月明かりのなかの月のように」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。
「しかして、林にある者と成れ。〔行乞の〕施食の者と〔成れ〕。さらには、墓場にある者と成れ。糞掃衣の者と〔成れ〕。常坐〔にして不臥〕なる者と成れ。常に、〔心の汚れを〕払い落とすこと(頭陀)に喜びある者と〔成れ〕」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。
木々を育てて果を求める者が、まさしく、その木を、根において断ち切るよう、〔彼に〕求めるようなもので、その喩えのように、心よ、〔おまえは〕このことを為す――動揺し、常住ならざるもののうちに、〔おまえが〕わたしを駆り立てる、というのなら。
形なき者よ、遠くに行く者よ、独り歩む者よ、おまえの言葉を、わたしは、今や、為さないであろう。まさに、諸々の欲望〔の対象〕は、苦しみである。辛く、大いなる恐怖である。〔自己の〕意に相対する者(心のあり方を観察する者)として、まさしく、涅槃〔の境処〕へと、〔わたしは〕歩むであろう。
不運のゆえにあらず、あるいは、恥〔の思い〕なきがゆえに〔あらず〕、〔迷える〕心を因としてにあらず、さらには、〔親族に〕追放されたがゆえにあらず――わたしが〔家を出たのは〕。しかして、わたしは、生計を因として、〔家を〕出たのではない。心よ、しかして、〔出家の〕承諾は、おまえのために、わたしによって為されたのだ。
「求むこと少なきこと、隠覆“かくしだて”の捨棄、苦しみの寂止は、正しい人たちによって褒め称えられた」と、心よ、まさに、そのとき、わたしを駆り立てたのだ。今や、おまえは、かつて歩んだところへと、〔ふたたび〕赴く。
渇愛〔の思い〕、無明と、愛しいものと愛しくないもの(愛憎の対象)と、諸々の美しい形態(美しく価値があるように見えるもの)、諸々の安楽の感受(楽受:快感)と、意に適う諸々の欲望の対象と、〔その一切は〕吐き捨てられた。吐き捨てられたものうちに帰ることは、わたしはできない。
心よ、一切所で、おまえの言葉は、わたしによって為された。多くの生において、わたしのために、〔おまえが〕怒りある者として存することはなかった(わたしは、おまえを怒らせなかった)。おまえの〔自分勝手な〕知恩〔の情〕によって(受けた恩恵を欲の思いで執着することを因として)、内に発生するものがある(心に苦悩や妄想が生起する)。おまえによって作られた苦しみのうちに、長きにわたり輪廻した。
心よ、まさしく、おまえは、〔真の〕婆羅門として為さない。おまえは、士族として、王族として、存し、為す。或る時は、〔わたしたちは〕庶民たちやら隷民たちやらと成る。あるいは、また、天〔の神〕たることも、まさしく、おまえに由縁する。
まさしく、おまえを因として、〔わたしたちは〕阿修羅たちと成る。おまえを根元として、〔わたしたちは〕地獄にある者たちと成る。しかして、或る時は、畜生の境遇もまたあれば、あるいは、また、餓鬼たることも、まさしく、おまえに由縁する。
ムフンムフンと芝居を見せるかのように、まさに、〔おまえは〕わたしを繰り返し裏切るではないか。狂者を〔誘惑する〕ように、〔おまえは〕わたしを誘惑する。心よ、しかして、また、おまえが、何だというのだろう。〔おまえは〕わたしに見捨てられたのだ。
かつて、この心は、〔気ままに〕歩みさすらう者として歩んできた――求める所から、欲する所へと、安楽“すき”なように。わたしは、今日、それ(心)を、根源から制御するであろう――鉤をもつ捕捉者(象使い)が、狂象を〔調御する〕ように。
しかして、教師(ブッダ)は、わたしのために、この世〔界〕を「常住ならず、常久ならず、真髄なきものである」と確立した(喝破した)。心よ、わたしを、勝者(ブッダ)の教えに入らしめよ。極めて超え難い大激流から超え渡らしめよ。
心よ、おまえにとって、このことは、過去のようにはならない。わたしがおまえの支配に戻るには、十分ではない(何の魅力もない)。偉大なる聖賢(ブッダ)の教えにおける出家者として、〔わたしは〕存している。わたしのような者たちは、〔もはや〕破滅〔の道〕を保つ者たちと成らない。
諸々の山、諸々の海、諸々の川、諸々の大地、四方(東西南北)、〔四〕維(四方の中間)、〔上方と〕下方――一切は、常住ならざるもの(無常)である。三つの生存(三界)は、〔老と死によって〕悩まされている。心よ、〔おまえは〕どこに赴き、安楽を喜ぶというのだろう。
厭わしきかな、かくのごとく、心よ、わたしのために、他に、何を為すというのだろう。心よ、おまえの支配に転じ行くのは、十分ではない(何の魅力もない)。もはや、鞴“ふいご”の口を、両〔側〕から吹きはすまい。〔この身体は〕厭わしきものとして存せ。〔汚物に〕満ち、〔汚物が〕流れ出る九つの流れあるものは。
野猪や羚羊が出没し慣れ親しむ山腹の峰に、まさしく、美妙なる自然のなか、新鮮な水が降り注ぐ雨の森において、〔おまえは〕そこにある洞窟の家に赴き、〔それらを〕喜ぶであろう。
美しい青首、美しい冠毛、美しい尾翼、種々様々な〔彩り〕の翼の覆“おおい”ある、宙を行く〔鳥〕たちがいて、彼らは、美しく精妙な声が響くのに唱和し、林のなかで瞑想するおまえを喜ぶであろう。
天が雨降り、草が四指〔の高さ〕になり、森〔の木々〕が雲にも似て花ひらいたとき、山々の間にあって、〔わたしは〕木の枝に等しい者として、〔地に〕臥すであろう。その〔場所〕は、わたしにとって、綿毛に似て柔らかいものと成るであろう。
しかしながら、あたかも、イッサラ〔天〕(自在天:イーシュヴァラ神)であるかのように、そのように、〔わたしは〕為すであろう。それが、〔わたしに〕得られるなら、それで、もう、わたしにとって、十分と成れ。休みなく〔働く革職人〕が、まさしく、猫の皮を〔鞣す〕ように、見事に鞣した〔猫の皮〕を〔袋にする〕ように、わたしは、おまえに為すであろう。
しかしながら、あたかも、イッサラ〔天〕であるかのように、そのように、〔わたしは〕為すであろう。それが、〔わたしに〕得られるなら、それで、もう、わたしにとって、十分と成れ。巧みな智ある、鉤もつ捕捉者が、発情した象を〔制御する〕ように、精進によって、おまえを、わたしの支配に導くであろう。
まさに、調教師が、真っすぐに〔進む〕馬とともに〔行く〕ように、善く調御され確立されたおまえとともに、心を守る者たちに常に慣れ親しまれてきた至福の道を、実践することができるのだ。
象を、堅固な縄で柱に〔繋ぎ止める〕ように、おまえを、力で〔瞑想の〕対象(所縁)に縛り付けるであろう。おまえは、わたしによって善く守られ、気づき(念)によって善く修められ、一切の〔迷いの〕生存にたいし依存なきものと成るであろう。
邪道に従い行く〔心〕を、知慧によって断ち切って、〔心の〕制止(瑜伽)によって制御して、〔正しい〕道において、〔自己を〕確たるものとせよ。〔物事の〕集起を〔あるがままに〕見て、さらには、消滅と発生を〔あるがままに見て〕、〔おまえは〕至高の説き手(ブッダ)の相続者と成るであろう。
四つの転倒の支配が確立した〔愚かな〕牧童を〔迷わす〕ように、心よ、〔おまえは〕わたしを遍く導く。束縛するものと結縛するものを断ち切る方(ブッダ)に、慈悲ある方にして偉大なる牟尼(ブッダ)に、まさに、〔おまえは〕仕え親しむのではないのか。
種々様々な森のうちに独り存する鹿が、雨雲のような花畑がある、喜ばしき山へと〔入って行く〕ように、〔世俗の〕混乱のない〔静かな〕山で、そこにおいて、〔わたしは〕喜び楽しむのだ。心よ、〔おまえは〕疑念なきものとなり、〔やがては〕滅び行くであろう。
彼らが、おまえの欲〔の思い〕の支配によって転起する者たちとなり、男たちも、女たちも、〔まさに〕その、〔世俗の〕安楽を味わい楽しむなら、〔彼らは〕無知なる者たちであり、悪魔の支配に転じ行く者たちであり、〔迷いの〕生存を喜ぶ者たちであり、心よ、おまえの従僕たちである。ということで――
……ターラプタ長老は……。
五十なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。
そこで、摂頌となる。
〔しかして、詩偈に言う〕「五十なるものの集まりにおいて、清らかなるターラプタが、独りあり、そこにおいて、五十、および、〔それを〕超えること、さらなる五の詩偈がある」と。
20 六十なるものの集まり