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8 テーラガーター
第一の章
18.1. マハー・カッサパ長老の詩偈
衆に尊ばれる者として、〔世を〕歩まぬもの。意が離れる者と成り、〔心の〕統一(定:三昧の境地)は得難きものと〔成る〕。「種々なる人が群れ集うのは、苦しみである」と見て、衆を喜ばぬもの。
牟尼(沈黙の聖者)は、家々を訪ね回らぬもの。意が離れる者と成り、〔心の〕統一は得難きものと〔成る〕。彼が、〔世俗の〕安楽をもたらす者となり、〔出家の〕義(目的)を遠ざけるなら、彼は、〔俗事に〕思い入れある者であり、味を貪る者である。
すなわち、家々における、この敬拝と供養であるが、まさに、それを、〔賢者たちは〕「汚泥である」と知った。微細な矢は抜き難く、〔他者からの〕尊敬は、俗人には捨て難い。
臥坐所から降りて、〔行乞の〕食のために、〔わたしは〕城市に入った。癩病の人が〔何やら〕食べているところに、彼〔の傍ら〕に、〔わたしは〕恭しく立った。
彼は、爛熟した手で、わたしに、一握り〔の食〕を授けてくれた。一握り〔の食〕を〔鉢に〕置く〔彼〕の〔腐った〕指も、このとき、〔一緒に〕断ち切られた。
しかして、〔城市の〕壁の根元に依拠して、〔わたしは〕その一握り〔の食〕を食べた。あるいは、〔それを〕食べつつも、あるいは、食べてしまったときも、わたしに、忌避〔の思い〕は見い出されない。
〔戸口に〕立って受ける〔行乞の〕食を食とし、しかして、腐尿(発酵した牛の尿)を薬とし、木の根元を臥坐所とし、さらには、糞掃衣(ぼろ布)を衣料とする、彼が、これらのものを征服して〔そののち〕(不満の思いが克服され、常に満ち足りているなら)、まさに、彼は、四方の人となる。
或る者たちが〔そそり立つ〕巌の連なりを登りつつ、〔結局は〕打ちのめされてしまう、そのような所でも、覚者たる彼(ブッダ)の相続者にして正知と気づきの者、神通の力に支えられたカッサパ(迦葉:人名・ブッダの高弟)は、〔楽々と〕登る。
〔行乞の〕施食(托鉢)から戻り、巌に登って、執取〔の思い〕なく、〔あらゆる〕恐れと恐ろしさを捨棄した者、カッサパは、〔独り〕瞑想する。
〔行乞の〕施食(托鉢)から戻り、巌に登って、執取〔の思い〕なく、〔欲の炎に〕焼かれている者たちのなかにいながら涅槃に到達した者、カッサパは、〔独り〕瞑想する。
〔行乞の〕施食(托鉢)から戻り、巌に登って、執取〔の思い〕なく、為すべきことを為した煩悩なき者、カッサパは、〔独り〕瞑想する。
カレーリの花畑が広がった、意が喜びとする、諸々の地域――喜ばしく、象の鳴き声がする、それらの巌は、わたしを喜ばせる。
青き雲の色の、好ましく、冷たい水があり、〔常に〕清らかさを保ち、〔心地よい〕インダゴーパカ〔草〕に覆われた、それらの巌は、わたしを喜ばせる。
青き雲の峰に等しく、楼閣の如くで、喜ばしく、象の鳴き声がする、それらの巌は、わたしを喜ばせる。
雨を得た諸々の喜ばしき平地、聖賢たちが慣れ親しむ山々、孔雀たち〔の声〕が鳴り響く、それらの巌は、わたしを喜ばせる。
瞑想することを欲し自己を精励する者として〔世に〕存している、わたしには、〔それで〕十分だ。〔解脱という〕義(目的)を欲し自己を精励する比丘である、わたしには、〔それで〕十分だ。
平穏を欲し自己を精励する比丘である、わたしには、〔それで〕十分だ。〔心の〕制止を欲し自己を精励する、そのような者である、わたしには、〔それで〕十分だ。
諸々の雲に覆われた空のように、ウンマーの花々をまとい、種々なる鳥の群れがそぞろ行く、それらの巌は、わたしを喜ばせる。
在家の者たちがそぞろ行くことなく、鹿の群れが慣れ親しみ、種々なる鳥の群れがそぞろ行く、それらの巌は、わたしを喜ばせる。
澄んだ水をたたえ、広々とした岩盤があり、黒面の猿や鹿が群れつどい、水と苔に覆われた、それらの巌は、わたしを喜ばせる。
心を一境にし、法(事象)を〔常に〕正しく観察している者にとってのような、そのような、わたしにとっての歓楽は、五つの支分ある楽器によっては有りえない(世俗の歓楽を超えた歓楽が存在する)。
〔世俗に関わる〕多くの行為(業)を為さないように。〔世俗に関わる〕人を遍く避けるように。〔俗事に〕努めないように。彼が、〔世俗の〕安楽をもたらす者となり、〔出家の〕義(目的)を遠ざけるなら、彼は、〔俗事に〕思い入れある者であり、味を貪る者である。
〔世俗に関わる〕多くの行為を為さないように。義(道理)のない〔俗事〕に導くこの者を遍く避けるように。身体は難渋し、疲弊する。〔俗事に〕苦しんだ彼は、〔心の〕止寂を知らない。
〔彼は〕唇を打つばかりで、自己さえも見ない。強情な首で(天狗になって)〔世を〕歩み、「わたしは、〔誰よりも〕より勝っている」と思いなす。
〔誰よりも〕より勝っていない愚者は、自己のことを、「〔誰よりも〕より勝っている者として〔世に〕存している」と思いなす。彼を、強情な意の人を、識者たちは賞賛しない。
しかしながら、彼が、「わたしは、〔誰よりも〕より勝っている者として〔世に〕存している」と、あるいは、また、「わたしは、〔誰よりも〕より勝っていない」と、あるいは、「〔彼に〕劣る」「彼と同等である」と、諸々の種類に〔心が〕動かないなら――
知慧ある者であり、そのような如なる者を、諸戒において〔心が〕善く定められた者を、心の止寂に専念する者を、しかして、彼を、識者たちは賞賛する。
彼に、共に梵行(禁欲清浄行)を為す者たちにたいする尊重〔の思い〕が認められないなら、〔彼は〕正なる法(真理)から遠く離れて有る――地が、天空から〔遠く離れて有る〕ように。
しかしながら、彼らの、恥〔の思い〕(慚)と〔良心の〕咎め(愧)が、常に正しく現起しているなら、彼らは、梵行が育ち実った者たちであり、彼らの、諸々のさらなる〔迷いの〕生存は滅尽したものとなる。
〔心が〕高ぶり、動揺し、〔それでいて〕糞掃衣を着た比丘――彼は、獅子の皮を〔被った〕猿のように、それによって光り輝かない。
〔心が〕高ぶらず、動揺せず、賢明で、〔感官の〕機能(根)が統御された〔比丘〕は、山窟にある獅子のように、糞掃衣によって美しく輝く。
これらの、神通と福徳ある数多くの天〔の神々〕たちは、梵の衆たる数万の天〔の神々〕たち(梵天衆)は、彼らの全てが――
法(教え)の軍団長、勇者にして偉大なる瞑想者、〔心が〕定められた方、サーリプッタ(舎利弗:人名・ブッダの高弟)を礼拝しながら、合掌を為し、立つ。
〔天の神々たちは言った〕「善き生まれの人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。〔まさに〕その、あなたのばあい、〔人が〕依拠して瞑想する、その〔対象物〕でさえも、〔わたしたちは〕証知しません。
まさに、稀有なることです。覚者たちの深遠なる境涯は、〔覚者〕自らのものです。すなわち、わたしたちは、〔髪の〕毛を貫く者たちの集まりですが、〔それを〕証知しません」〔と〕。
そのように、天の衆たちに供養され、供養に値する方、〔まさに〕その、サーリプッタを見て、そのとき、カッピナ(マハー・カッサパ)には、笑みが有った。
覚者(ブッダ)の田畑(福田)におけるかぎり、偉大なる牟尼(ブッダ)を除いて、わたしは、〔心の汚れを〕払い落とす徳(頭陀行)において、殊勝の者であり、わたしと同等の者は、〔どこにも〕見い出されない。
わたしによって、教師(ブッダ)は奉仕され、覚者(ブッダ)の教えは為された。重き荷は安置され、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。
ゴータマ(ブッダ)は、〔世俗の物差しでは〕量ることができない。〔彼は〕衣料に〔汚され〕ず、臥所に〔汚され〕ず、食に汚されない――蓮の花が、垢(汚れ)を離れ、〔汚〕水に〔汚されない〕ように。離欲して〔涅槃の境処に〕下向した方、三つの〔迷いの〕生存(三界)を出離した方である。
彼は、偉大なる牟尼(ブッダ)は、気づきの確立(念処・念住)を首とし、信を手とし、知慧を頭とし、常に、偉大なる知恵ある方として、涅槃に到達した方として、〔世を〕歩む。ということで――
……マハー・カッサパ長老は……。
四十なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。
そこで、摂頌となる。
〔しかして、詩偈に言う〕「四十なるものの集まりにおいて、マハー・カッサパという呼び名を有する長老が、まさしく、独りあり、四十の詩偈が、さらに、また、二つ〔の詩偈〕がある」と。
19 五十なるものの集まり