>小部経典
8 テーラガーター
17.3. アーナンダ長老の詩偈
しかして、中傷する者と、忿怒する者と、さらには、物惜しみする者と、〔他者の〕破滅を喜ぶ者と、賢者は、友誼を為さぬもの。俗人との交際は、悪である。
しかして、信ある者と、かつまた、博愛なる者と、知慧ある者と、さらには、多聞の者と、賢者は、友誼を為すもの。正しい人との交際は、幸いである。
見よ――様々に作り為された〔欲の〕幻影を――寄せ集めの、傷ある身体を――病んだ、妄想多きものを。それに、常久と止住は、〔何であれ〕存在しない。
1021. 見よ――様々に作り為された〔虚妄の〕形態を、宝珠や耳飾りやらで〔飾り立てられた身体を〕――骨と皮で覆われた〔身体〕を。諸々の衣と共にあって、美しく輝く〔だけのこと〕。
1022. 〔赤の〕染料が為された〔両の〕足、〔白の〕塗粉が塗られた顔――愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を求める者には、さにあらず。
1023. 八房に為された諸々の髪、〔黒の〕塗薬が塗られた〔両の〕眼――愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を求める者には、さにあらず。
1024. 様々な〔彩り〕の新しい塗薬箱のように、〔見てくれを〕十分に作り為した腐敗の身体――愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を求める者には、さにあらず。
1025 多聞にして、様々な言説あり、覚者(ブッダ)の侍者にして、重荷を降ろし、束縛を離れた者――ゴータマ(アーナンダ)は、臥所を営む。煩悩が滅尽し、束縛を離れ、執着を超え行き、善く涅槃に到達した者は、生と死の彼岸に至る者となり、最後の肉身を保つ(死後、涅槃に行く)。
太陽の眷属たる覚者(ブッダ)の諸々の法(教え)が確立した、〔まさに〕その、涅槃に至る道において、彼は、このゴータマ(アーナンダ)は、立つ。
〔わたしは〕覚者(ブッダ)から八万二〔千の法〕を、比丘たちから二千〔の法〕を、掴み取った。すなわち、〔世に〕転起している、八万四千のこれらの法(教え)である。
この少聞の人は、荷牛のように老い朽ちる。彼の諸々の肉は増え行くが、彼の知慧は増え行くことがない。
多聞の者が、彼が、聞かれたもの(聴聞した教え)によって、少聞の者を軽んじるなら、盲者が灯明を保つように、まさしく、そのように、わたしには〔その愚が〕明白となる。
多聞の者に近侍するように。しかして、聞かれたもの(聴聞した教え)を失わないように。それは、梵行(禁欲清浄行)の根元である。それゆえに、法(教え)を保つ者として存するように。
前後〔関係〕を知り、義(意味)を知り、語義を熟知する者は、しかして、見事に把握された〔法〕を把握し、かつまた、義(意味)を近しく注視する。
忍耐によって、〔涅槃の境処への〕欲〔の思い〕(意欲)を為した者と成る。〔断固〕敢行して、それを〔考量し〕比較する。彼は、内に〔心が〕善く定められた者であり、〔正しい〕時に〔刻苦〕精励する。
多聞にして、法(教え)を保ち、知慧を有する、覚者(ブッダ)の弟子と――法(教え)の識別(識:認識作用一般、差異を識知する働き)あり、〔涅槃の境処を〕望む、そのような種類の者と、彼と、親しくするように。
多聞にして、法(教え)を保ち、〔教えの〕蔵を守る、大いなる聖賢は、一切世〔界〕の眼たる多聞の者は、供養されるべきである。
法(真理)を喜びとし、法(真理)に喜びあり、法(真理)を〔常に〕弁別し、法(真理)を〔常に〕思念している比丘は、正なる法(真理)から衰退しない。
〔身体が〕失われつつあるのに奮起せず、身体にたいする物惜しみ〔の思い〕を重んじ、肉体の楽しみを貪る者に、どうして、沙門の平穏〔の境地〕があるというのだろう。
一切の方角は定まらず、諸々の法(教え)は、わたしには〔いまだ〕明白とはならない。善き朋友(サーリプッタ)が〔死へと〕赴いたとき、〔世界は〕暗黒であるかに見える。
道友(サーリプッタ)が去り行き、教師(ブッダ)が過ぎ行き〔死へと〕赴いた者にとって、身体の在り方(時々刻々の身体の状況)についての気づき(念)のような、このような〔善き〕朋友は、〔今となっては〕存在しない。
彼ら、古き者たち――彼らは、過ぎ行った。わたしには、新しい者たちとは、〔互いが互いを〕行知することはない。その〔わたし〕は、今日、まさしく、独り、瞑想する――雨に降られた鳥捕りのように。
〔世尊は言った〕「〔わたしに〕相見“まみ”えるために〔遠方から〕超え来た、種々なる国々の多くの者たちを、〔聞く〕耳ある者たちを、妨げることがあってはならない。わたしに相見えよ。〔今が、その〕時である」〔と〕。
〔教師に〕相見えるために〔遠方から〕超え来た、種々なる国々の多々なる者たちに、教師(ブッダ)は、〔聴聞の〕機会を作る。眼ある方(ブッダ)は、〔他を〕妨げない。
二十五年のあいだ、学びある者(有学)と成り、〔世に〕存しているわたしに、欲望〔の対象〕の想い(想:表象・概念)は生起しなかった。見よ――法(事象)が善き法(事象)たることを。
二十五年のあいだ、学びある者と成り、〔世に〕存しているわたしに、憤怒(瞋)の想いは生起しなかった。見よ――法(事象)が見事に法(事象)たることを。
二十五年のあいだ、慈愛ある身体の行為(身業)によって、〔わたしは〕世尊(ブッダ)に奉仕してきた――影が離れないように。
二十五年のあいだ、慈愛ある言葉の行為(口業)によって、〔わたしは〕世尊(ブッダ)に奉仕してきた――影が離れないように。
二十五年のあいだ、慈愛ある意の行為(意業)によって、〔わたしは〕世尊(ブッダ)に奉仕してきた――影が離れないように。
歩行〔瞑想〕をしている覚者(ブッダ)の後に従い歩行〔瞑想〕をした。法(教え)が説示されているとき、わたしに、知恵が生起した。
〔いまだ〕為すべきこと有るわたしは、学びある者として、〔涅槃の〕意を得ずにいる者として、〔世に〕存している。しかして、わたしたちにとって慈しみ〔の思い〕ある方である、〔まさに〕その、教師(ブッダ)には、完全なる涅槃が〔存した〕(般涅槃した)。
一切の優れた行相を具した正覚者(ブッダ)が、完全なる涅槃に到達したとき、そのとき、〔まさに〕その、禍々“まがまが”しき〔思い〕が存した。そのとき、身の毛のよだつ〔思い〕が存した。
〔アーナンダ長老の死後、残された者は詩偈を唱えた〕「多聞にして、法(教え)を保ち、〔教えの〕蔵を守る、大いなる聖賢は、一切世〔界〕の眼たるアーナンダ(阿難:人名・ブッダの侍者)は、完全なる涅槃に到達した者となる(般涅槃した)。
多聞にして、法(教え)を保ち、〔教えの〕蔵を守る、大いなる聖賢は、一切世〔界〕の眼たる方(アーナンダ)は、暗黒のうちにありながら闇を除去する者である。
〔善き〕境遇ある者(善趣に赴く者)、〔常に〕気づきある者、しかして、〔まさに〕その、〔道心〕堅固の聖賢――正なる法(教え)を保つ、アーナンダ長老は、宝の鉱脈である」〔と〕。
わたしによって、教師(ブッダ)は奉仕され、覚者(ブッダ)の教えは為された。重き荷は安置され、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。ということで――
……アーナンダ長老は……。
三十なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。
そこで、摂頌となる。
〔しかして、詩偈に言う〕「プッサ、ウパティッサ(サーリプッタ)、アーナンダ、かくのごとく、これらの三者の栄誉ある〔長老たち〕があり、そこにおいて、百、および、〔それを〕超えること五と数えられた詩偈がある」と。
18 四十なるものの集まり