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8 テーラガーター

17.2. サーリプッタ長老の詩偈

行じおこなうままに、気づきのままに、気づきある者――思惟を制した瞑想者として、〔常に気づきを〕怠らない者―自己が善く定められ、内に喜びある者――〔常に〕満ち足りている、独りある者――彼を、〔賢者たちは〕「比丘」と言う。

水気のあるものを〔食べているとして〕、あるいは、乾燥したものを食べているとして、甚だしく満腹した者として存さないように。気づきある比丘は、〔常に〕腹を空かし〔正しく〕量られた食の者として、遍歴遊行するように。

四〔口〕五口〔の食〕は食べずして、水を飲むように。自己を精励する比丘にとって、平穏の住のためには、〔これで〕十分だ。

この義(目的)ある衣料が、適切なるものとして、それを覆い隠すなら、自己を精励する比丘にとって、平穏の住のためには、〔これで〕十分だ。

結跏で坐した者の〔両の〕膝まで、雨が降らない。自己を精励する比丘にとって、平穏の住のためには、〔これで〕十分だ。

〔まさに〕その、〔世俗の〕楽しみを「苦しみである」と見た者、苦しみを「〔毒〕矢である」と見た者――〔彼は〕両者の中間において、〔何ものにも〕成らなかった。世において、誰をもって、何が存するというのだろう。

何時であれ、わたしとともに、悪を求める者、怠惰なる者、精進に劣る者、少聞の者、礼を欠く者が、〔有っては〕ならない。世において、誰をもって、何が存するというのだろう。

しかして、多聞にして思慮ある者、諸戒において〔心が〕善く定められた者は、心の止寂に専念する者もまた、〔わたしの〕頭上に立て。

〔まさに〕その、戯論(分別妄想)に専念し、戯論に喜びある獣愚の者――彼は、涅槃〔の境処〕を、束縛からの〔心の〕平安という無上なるものを、失った。

しかして、〔まさに〕その、戯論(分別妄想)を捨棄して、戯論なき道に喜びある者――彼は、涅槃〔の境処〕に、束縛からの〔心の〕平安という無上なるものに、達した。

もしくは、村であろうが、林であろうが――もしくは、低地であろうが、高地であろうが――そこに、阿羅漢(人格完成者)たちが住むなら、その地は、喜ぶべきものとなる。

〔世俗の〕人が喜ばないような所である、〔人里離れた〕諸々の林は、〔阿羅漢たちにとって〕喜ぶべきものである。貪欲を離れた者たちは、〔そこにおいて〕喜ぶであろう。彼らは、欲望〔の対象〕を求める者たちではない。

〔隠された〕諸々の財宝〔の在処“ありか”〕を伝授する者のように、〔わが身の〕罪過に見ある者(無自覚の罪過を指摘してくれる者)を、彼を、見るなら、そのような賢者と、〔過誤を「過誤である」と正しく〕批判して説く思慮ある者と、親しくするように。そのような者と親しくしている者には、より勝ることが有り、より悪しきことは〔有りえ〕ない。

〔他者を〕教え諭すように。〔真理を〕教え示すように。しかして、不当なことから〔自己を〕防護するように。まさに、彼は、正しくある者たちにとっては、愛しき者と成り、正しからざる者たちにとっては、愛しからざる者と成る。

 世尊は、覚者は、眼“まなこ”ある方(ブッダ)は、他者のために、法(真理)を説示した。法(真理)が説示されているとき、〔真理を〕義(目的)とする者として、〔わたしは〕耳を傾けた。わたしの、その聴聞は、無駄ならざるもの。〔わたしは〕解脱者として、煩悩なき者として、〔世に〕存している。

まさしく、過去(前世)の居住〔を知る神通〕のためにあらず、また、天眼〔の獲得〕のためにもあらず、〔他者の〕心を探知する神通のために〔あらず〕、〔有情たちの〕死滅と再生〔を知る神通〕のために〔あらず〕、耳の界域(天耳界)の清浄のためにあらず――わたしの誓願が、〔世に〕見い出されるのは(わたしの誓願は、法のためにある)。

まさしく、木の根元に依拠して、剃髪し、大衣を着た、知慧についての最上者、まさしく、ウパティッサ長老(サーリプッタ)は、〔独り〕瞑想する。

思考なき〔境地〕に入定した、正自覚者(ブッダ)の弟子は、まさしく、ただちに、聖なる沈黙の状態を具した者と成る。

また、山の巌が、動揺せず、しっかりと確立しているように、このように、迷妄の滅尽あることから、比丘は、山のように、〔何ものにも〕動じない。

常に清らかさを求めている、穢れなき人には、毛先ばかりの悪でも、まさしく、雲ほどに見えてしまう(甚大なものとして認知される)。

〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。正知と気づきの者として、この身体を置き去りにするであろう。

〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。しかして、雇われ者が報酬を〔待つ〕ように、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。

〔常住と断滅の〕両者によっても、これは、死あるだけのこと。未来であろうと、過去であろうと、死ならざるものは〔有りえ〕ない。〔道を〕実践せよ。〔為すことなく〕滅び去ってはならない。まさに、〔いかなる〕時節であろうが、〔無駄に〕過ぎ行くことがあってはならない(瞬時でさえも、虚しく過ごしてはならない)。

辺境にある、内外共に守られた城市のように、このように、自己を守るがよい。〔いかなる〕時節であろうが、あなたたちを過ぎ行くことがあってはならない(瞬時でさえも、虚しく過ごしてはならない)。なぜなら、〔いかなる〕時節であろうが〔無駄に〕過ごした者たちは、地獄に引き渡され、憂い悲しむからである。

〔心身が〕寂静で、〔貪欲が〕止息し、智慮によって語り、〔心が〕高ぶらない者――〔彼は〕悪しき諸法(性質)を払い落とす――風が、木の葉を〔吹き払う〕ように。

〔心身が〕寂静で、〔貪欲が〕止息し、智慮によって語り、〔心が〕高ぶらない者――〔彼は〕悪しき諸法(性質)を落とし去った――風が、木の葉を〔吹き払う〕ように。

〔心身が〕寂静で、〔所作に〕苦労なく、清らかな信あり、〔心に〕濁りなく、善き戒あり、思慮ある者は、苦しみの終極を為す者として、〔世に〕存するであろう。

このように、家ある者たち、そして、出家者たちでさえも、或る一部の者たちについて、信頼しないように(先入見なく事実のとおりに見る)。たとえ、善き者たちとして有っても、善ならざる者たちと成る。善ならざる者たちとして有っても、ふたたび、善き者たちと成る。

欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕と、加害〔の思い〕、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)と、〔心の〕高揚、そして、疑惑〔の思い〕――比丘にとって、これらの五つは、心の怠慢である。

彼が、〔他者から〕尊敬されているとして、さらには、〔他者の〕尊敬がなくても、両者にたいし、〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)に住する者として、〔心の〕統一(定:三昧の境地)が、〔まったくもって〕動じないなら――

彼を、常恒なる瞑想者を、微細な見(瞬間瞬間をあるがままに知り見るものの見方)の観察者を、執取の滅尽を喜びとする者を、〔賢者たちは〕「正しい人である」と言う。

大海、地、山、さらに、また、風――〔それらは〕教師(ブッダ)の優れた解脱の喩えには、結び付かない(解脱の境地は喩えようがない)。

〔法の〕輪を〔世尊に続いて〕従い転起させる長老(サーリプッタ)は、大いなる知恵ある者であり、〔心が〕定められた者であり、地と水と火に等しく、〔貪りに〕染まらず、〔怒りに〕汚れない。

知慧の最奥義(般若波羅蜜)を得た者は、大いなる覚慧ある者であり、大いなる思慧ある者であり、痴者に等しくして痴者ならず、涅槃に到達した者として、常に〔世を〕歩む。

わたしによって、教師(ブッダ)は奉仕され、覚者(ブッダ)の教えは為された。重き荷は安置され、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。

〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)で、〔道を〕成就するように。これが、わたしの教示である。さあ、わたしは、完全なる涅槃に到達するであろう。〔わたしは〕一切所で、解脱者として存している。ということで――

 ……サーリプッタ長老は……。