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8 テーラガーター

10.6. ウパセーナ・ヴァンガンタプッタ長老の詩偈

騒音少なく、〔人里から〕遠離した、猛獣の慣れ親しむところである、〔そのような〕臥坐所に、比丘は、慣れ親しむがよい――坐禅を動機とするがゆえに。

塵芥場“ごみすてば”から、墓場から、そして、道々から、〔ぼろ布を〕持ち運んで、そののち、大衣を作って、粗悪な衣料を〔身に〕保つがよい。

謙虚に意を為して、歩々淡々と、家から家へと、〔感官の〕門が守られ、〔自己が〕善く統御された者として、比丘は、〔行乞の〕食のために歩むがよい。

あるいは、たとえ、粗悪なものでも、満ち足りているがよい。他に、多くの味を、望まぬがよい。諸々の味について貪りある者の意は、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)において喜ぶことがない。

牟尼(沈黙の聖者)は、まさしく、しかして、求むこと少なき者として、〔常に〕満ち足りている遠離の者として、住するがよい――在家の者たち、および、家なき者たちと、〔その〕両者と交わることなく。

まさしく、痴者としてあり、まさしく、唖者としてあるかのように、そのように、自己を見せるがよい。賢者は、僧団の中において、限度を超えて語らぬがよい。

彼は、誰であろうと、批判せぬがよい。害することを避けるがよい。戒め(波羅提木叉:戒律条項)において〔自己が〕統御された者として、さらには、食について量を知る者として、存するがよい。

形相(瞑想対象)を善く収め取った者として、心の生起を熟知する者として、存するがよい。〔心の〕止寂(奢摩他・止)に専念するがよい。しかして、〔正しい〕時に、〔心の〕観察(毘鉢舎那・観)に〔専念するがよい〕。

精進の常恒を成就した者(不退転の修行者)として、〔心の〕制止(瑜伽)に専念する者として、常に、存するがよい。しかして、賢者は、苦しみの終極を得ずして、確信〔の思い〕に至らぬがよい。

このように住している〔比丘〕の、清浄〔の境地〕を欲する比丘の、一切の煩悩は滅尽し、しかして、〔彼は〕寂滅〔の境地〕に到達する。ということで――

 ……ウパセーナ・ヴァンガンタプッタ長老は……。