>小部経典
8 テーラガーター
10.7. 他のゴータマ長老の詩偈
自らの義(目的)を識知するように。〔覚者の〕言葉に注目するように。しかして、ここに、それが、沙門の資質に到達した者にとって、適切なこととして存するなら。
しかして、この〔世において〕善き朋友であること、広大なる学び〔の境処〕(戒律)を受持すること、そして、導師たちの〔言葉を〕聞こうとすること――これは、沙門にとって、適切なことである。
覚者たちにたいし尊重〔の思い〕を有すること、法(教え)にたいし事実のとおりに敬恭すること、そして、僧団にたいし心を為すこと――これは、沙門にとって、適切なことである。
〔正しい〕行状と〔正しい〕境涯に専念すること、清らかで非難されない生き方あること、そして、心を確立すること――これは、沙門にとって、適切なことである。
〔善を〕行じおこなうこと、しかして、〔悪を〕避けること、〔正しい〕振る舞いの道あること、清らかな信あること、そして、向上の心(瞑想)に専念すること――これは、沙門にとって、適切なことである。
牟尼が慣れ親しむべき、騒音少なく、辺境の、諸々の林にある臥坐所――これは、沙門にとって、適切なことである。
しかして、戒、さらには、多聞、諸々の法(教え)の事実のとおりの精査、諸々の真理の知悉(現観)――これは、沙門にとって、適切なことである。
しかして、「〔一切は〕常住ならざるもの(無常)である」と〔知って〕、「〔一切は〕自己ならざるもの(無我)である」という想い(無我想)、および、「〔一切は〕美しくない(価値がない)」という想い(不浄想)、そして、世〔の俗事〕に喜びなきを修めるなら――これは、沙門にとって、適切なことである。
しかして、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)、〔四つの〕神通の足場(四神足)、〔五つの〕機能(五根)と〔五つの〕力(五力)、聖なる八つの支分ある道(八正道)を修めるなら――これは、沙門にとって、適切なことである。
牟尼となり、渇愛を捨棄し、諸々の煩悩を根ごと破り去るなら、解脱者となり、〔世に〕住するなら――これは、沙門にとって、適切なことである。ということで――
……ゴータマ長老は……。
十なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。
そこで、摂頌となる。
〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、カールダーイン長老、および、エーカ・ヴィハーリン(エーカ・ヴィハーリヤ)、カッピナ、チューラ・パンタカ、および、カッパ、および、ウパセーナ(ウパセーナ・ヴァンガンタプッタ)、ゴータマ、十なるものの集まりにおいて、これらの七者の長老たちがあり、しかして、ここに、七十の詩偈がある」と。