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8 テーラガーター

16 二十なるものの集まり

第一の章

16.1. アディムッタ長老の詩偈

〔盗賊が尋ねた〕「あるいは、祭祀を義(目的)として、あるいは、財産を義(目的)として、かつて、わたしたちが殺すところの、それらの者たちであるが、〔彼らは〕動揺し、かつまた、悲嘆し、〔後に〕残すものとして、恐怖〔の思い〕が有る。

〔まさに〕その、おまえに、恐怖する自己は存在しない。〔それどころか〕より一層、色艶は清まる。何ゆえに、このような形態の大いなる恐怖にたいし、〔おまえは〕嘆き悲しまないのか」〔と〕。

〔長老は答えた〕「頭目よ、期待なき者に、心の苦しみは存在しない。まさに、束縛するものが滅尽した者にとって、一切の恐怖は超え行かれた。

〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)が滅尽され、真実のとおりに法(事象)が見られたとき、死についての恐怖は有りえない――重荷を置き去りにするときのように。

わたしによって、梵行(禁欲清浄行)は善く歩まれ、そして、また、道は善く修められた。わたしに、死についての恐怖は存在しない――諸々の病の消滅するときのように。

わたしによって、梵行は善く歩まれ、そして、また、道は善く修められた。諸々の生存は、悦楽なきものと見られた。毒は、飲んで、捨て放たれた。

彼岸に至り、執取〔の思い〕なく、為すべきことを為した、煩悩なき者は、寿命の滅尽あることから、満ち足りた者と成る――刑場から解き放たれた者のように。

最上の法(真理)たることを得た者は、一切世〔界〕について義(目的)なき者であり、死について憂い悲しまない――燃えている家から解き放たれた者のように。

『それが何であれ、集いあつまったもの(因縁によって形成されたもの)として存在するなら、あるいは、そこにおいて、〔迷いの〕生存が得られるなら、この一切は、主権なきものである(自由にならない他律的な存在である)』〔と〕、かくのごとく、偉大なる聖賢(ブッダ)によって説かれた。

彼が、それを、覚者(ブッダ)によって説示されたとおり、そのとおりに覚知するなら、〔彼は〕何であれ、〔迷いの〕生存を掴まない――熱く熱せられた鉄の玉を〔掴まない〕ように。

わたしに、『〔わたしは〕有った』という〔思い〕は有りえない。わたしに、『〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕は有りえない。諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)は、〔いずれ〕消滅するであろう。そこに、何の嘆きがあるというのだろう。

頭目よ、清浄なる法(事象)の生起を、清浄なる形成〔作用〕(行:生の輪廻を施設し造作する働き)の相続を、事実のとおりに見ている者に、恐怖は有りえない。

世〔界〕を、草や薪に等しきものと、知慧によって見るとき、彼は、我執〔の思い〕を見い出すことなく、『わたしには、〔何も〕存在しない』と、憂い悲しまない。

〔わたしは〕肉体を嫌悪する。〔わたしは〕生存に義(目的)なき者として存在する。〔まさに〕その、この身体は、〔いずれ〕朽ち果てるであろう。しかして、他〔の身体〕は有りえないであろう。

それが、あなたたちにとって、肉体をもって為すべきことであり、〔あなたたちが〕それを求めるなら、〔あなたたちは〕それを為しなさい。わたしには、それを縁として、そこに、憤怒〔の思い〕は〔有りえず〕、かつまた、愛情〔の思い〕も有りえないであろう」〔と〕。

彼の、身の毛のよだつ、未曾有の、その言葉を聞いて、若き〔盗賊〕たちは、諸々の刃を置いて、このことを説いた。

〔盗賊が尋ねた〕「あなたに、幸せ〔有れ〕。何を為して、あるいは、誰があなたの師匠として、誰の教えを縁として、その〔教え〕を〔為してそののち〕、憂いなき〔境地〕は得られるのですか」〔と〕。

〔長老は答えた〕「一切を知り、一切を見る、〔一切世界の〕勝者(ブッダ)が、わたしの師匠である。偉大なる慈悲ある教師が、一切世〔界〕の医師が、〔わたしの師匠である〕。

彼によって説示された、この法(真理)は、滅尽に至るものであり、無上なるものである。彼の教えを縁として、その〔教え〕を〔為してそののち〕、憂いなき〔境地〕は得られる」〔と〕。

聖賢の見事に語られた〔言葉〕を聞いて、盗賊たちは、しかして、諸々の刃を置いて、さらには、諸々の武器を〔置いて〕、しかして、それゆえに、或る者たちは、〔盗賊の〕行為(業)から離れ、さらには、或る者たちは、出家することを選んだ。

彼らは、善き至達者(ブッダ)の教えにおいて出家して、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)と〔五つの〕力(五力)を修めて、賢者たちとなり、心が躍り上がり、意楽しく、〔感官の〕機能(根)〔の統御〕を為し、形成されたものでないもの(無為)を、〔すなわち〕涅槃の境処を、体得した。ということで――

 ……アディムッタ長老は……。