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8 テーラガーター

15.2. ウダーイン長老の詩偈

「人間という生類でありながら、正覚者であり、自己が調御され、〔心が〕定められた者――梵の道に振る舞いつつ、心の寂止に喜びある者――

人間たちが礼拝するところの、〔まさに〕その、一切諸法(事象)の彼岸に至る者――彼を、天〔の神々〕たちさえも、礼拝する」〔と〕。かくのごとく、阿羅漢(人格完成者)について、わたしは聞いた。

「一切の束縛するものを超え行き、〔欲の〕林から〔欲の〕林叢“したばえ”なきへと帰り来た者――岩から解き放たれた黄金のように、諸々の欲望〔の対象〕からの離欲に喜びある者を、〔天の神々たちさえも、礼拝する〕」〔と〕。

まさに、彼(ブッダ)は、究極の光輝ある象(龍象:ブッダの尊称の一つ)である――ヒマヴァント(ヒマラヤ)が、諸他の巌の連なりを〔圧倒する〕ように。象の名ある、全ての者のなかで、真の名ある、無上なる方である。

あなたたちのために、〔わたしは〕象のことを述べ伝えるであろう。まさに、彼は、罪悪を作らない。温和、そして、不害――それらは、象の、両の足である。

気づき(念)と、正知と――それらの性行は、象の、他〔の両の足〕である。偉大なる象は、信を手(鼻)とし、放捨〔の心〕(捨:分け隔てのない心)を白き牙とする。

気づきは、首である。知慧は、頭である。考察は、法(教え)の思弁である。共住は、法(教え)の子宮である。遠離は、彼の尾である。

彼は、瞑想者である。入息〔と出息〕に喜びある者である。内に〔心が〕善く定められた者である。行きつつある〔時の〕象は、〔心が〕定められた者である。立った〔時の〕象は、〔心が〕定められた者である。

臥している〔時の〕象は、〔心が〕定められた者である。坐した〔時の象〕もまた、〔心が〕定められた者である。象は、一切所において〔自己が〕統御された者である。これは、象〔というあり方〕の成就である。

〔彼は〕諸々の罪なきものを〔施物として〕受ける。〔彼は〕諸々の罪を有するものを〔施物として〕受けない。〔適時に〕食糧と衣服を得て、蓄積“たくわえ”を遍く避けている。

微細であれ、粗大であれ、束縛するものを〔断ち切って〕、一切の結縛を断ち切って、まさしく、行くところ、〔行く〕ところで、まさしく、期待なき者として、〔彼は〕行く。

また、〔汚〕水に生じた白蓮華が成長し、清らかな香りがあり、意が喜びとするものでありながら、〔汚〕水に汚されないように――

まさしく、そのように、しかして、世に生まれた覚者は、世に住み、蓮華のように、世の水に汚されない。

燃え盛る大火は、食(薪)なきものは、〔いずれ〕止み静まる。しかして、〔世に〕諸々の炭火が存しつつあるなかで、〔彼は〕「涅槃に到達した者」と呼ばれる。

義(目的)を識知させるものとして、この喩えは、識者たちによって〔世に〕説示された。大いなる象たちは、象を、象によって説示された〔法〕を、識知するであろう。

貪り(貪)を離れ、怒り(瞋)を離れ、迷い(痴)を離れ、煩悩者となり、象は、肉体を捨棄しつつ、煩悩なき者となり、完全なる涅槃に到達するであろう。ということで――

 ……ウダーイン長老は……。

 十六なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。

 そこで、摂頌となる。

 〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、コンダンニャ(アンニャーシ・コンダンニャ)、さらには、ウダーイン、それらの二者の大いなる神通ある長老たちがあり、十六なるものの集まりにおいて、しかして、ここに、三十と二との詩偈がある」と。