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8 テーラガーター

16.10. パーラーパリヤ長老の詩偈

花ひらいた大いなる林のなかで、沙門に、諸々の思うところが有った――〔人里から〕遠離し、〔心が〕一境にある、〔静所に〕坐した瞑想者に。

世の主“あるじ”たる最上の人(ブッダ)が〔世に〕止まり住んでいるとき、比丘たちの振る舞いは、〔今とは〕他のものとして存していた。今や、〔比丘たちの振る舞いは〕他のものとして見られる。

寒風から〔身を〕守る諸々の〔衣料〕については、恥〔の思い〕から隠すべきところを覆う諸々の〔衣料〕については、〔必要最小限の〕量として義(目的)あるものを、〔比丘たちは〕受けた――いかなるものにても〔足ることを知り〕満足している者たちとして。

もしくは、上等のもの、あるいは、粗悪なもの、もしくは、少なかろうが、多かろうが、〔身体の〕保持を義(目的)とするものを、〔比丘たちは〕受けた――〔味に〕耽溺せず、貪欲なき者たちとして。

諸々の生命にとっての必需品、医薬品、しかして、日用品にたいし、激しい思い入れある者たちとして、〔彼らが〕存することはなかった――煩悩の滅尽〔という境地〕において、彼らがあるままに。

林のなかの木々の根元で、諸々の石窟において、そして、諸々の洞窟において、遠離〔の境地〕を増進しながら、それ(遠離の境地)を〔彼らの〕行き着く所として、〔世に〕住した。

〔彼らは〕低きに〔心が〕確立された〔慎みある〕者たちであり、〔他者にとって〕扶養し易く、柔和で、意が強情ならざる者たちである。〔彼らは〕優美で、寡黙で、義(道理)の思弁の支配に従い行く者たちである。

そののち、〔彼らの〕行くところ、食するところ、慣れ親しむところは、〔常に〕清らかなものとして、〔世に〕存した。〔彼らの〕振る舞いの道は、滑らかな油の流れのように、〔世に〕有った。

一切の煩悩が完全に滅尽した、大いなる瞑想者にして大いなる益ある者たち――今や、それらの長老たちは、涅槃に到達した者となる(般涅槃した)。今や、そのような者たちは、僅かとなる。

しかして、諸々の善なる法(性質)の、さらには、知慧の、完全なる滅尽あることから、一切の優れた行相を具した、勝者(ブッダ)の教えが、滅び去る。

しかして、諸々の悪しき法(性質)の、さらには、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)の、〔まさに〕その、〔増大する〕時節となり、しかして、彼ら、遠離〔の境地〕のために〔気づきを〕現起している者たちは、正なる法(教え)の残余ある者たちとなる。

増大しつつある、それらの〔心の〕汚れは、多くの人を侵す。〔わたしは〕思う――「羅刹たちが狂者たちと〔戯れる〕ように、〔それらは〕愚者たちと戯れる」〔と〕。

彼ら、諸々の〔心の〕汚れに征服された人たちは、諸々の〔心の〕汚れの事物(欲望の対象)のうちにおいて、そこかしこと、走り回っている――戦場の中で叫んでいるかのように。

〔彼らは〕正なる法(教え)を完全に捨て去って、互いに他の者たちと言い争う。〔彼らは〕諸々の悪しき見解に従いつつ、「これは、より勝っている」と思いなす。

しかして、財を、子を、さらには、妻を、〔その一切を〕捨て放って、〔家を〕去った者たちが、たかが、〔一〕椀の行乞を因として、諸々の為すべきでないことに慣れ親しむ。

腹一杯食べて、〔彼らは〕臥している――〔横臥せず〕上向きに臥す者たちとして。目覚めた〔彼ら〕は、諸々の言説を説く――教師(ブッダ)が難じるところの、〔まさに〕その、〔無用の〕言説を。

全ての職人の技能を、心を為して学び、内に〔心は〕寂止されることなく、「〔これこそは〕沙門の資質たる義(目的)である」と坐視される。

塗料を、しかして、油と塗粉を、水と坐〔具〕と食を、〔さらには〕より多くのものを望みながら、在家者たちに接近する。

楊枝を、しかして、カピッタ〔の果〕を、花を、さらには、諸々の固形の食料を、しかして、諸々の〔施物に〕満ちた〔行乞の〕施食を、諸々のアンバ〔の果〕を、さらには、諸々のアーマラカ〔の果〕を。

諸々の医薬品については、医師たちのように〔振る舞う〕。為すべきことと為すべきでないことについては、在家者たちのように〔振る舞う〕。飾り立てることについては、娼婦たちのように〔振る舞う〕。権力については、士族たちのように〔振る舞う〕。

〔彼らは〕欺く者たち、騙す者たち、偽証の者たち、陰険な者たちである。多くの工面によって、〔世〕財を受ける。

諸々の計画、諸々の教相、諸々の工面に走り回り、生を義(目的)として、〔悪しき〕手段で、多くの財を引き寄せる。

〔形骸化した宗教的〕行為(業)ゆえに、衆(集会)を催す――しかして、法(真理)のためではなく。利得(施物)ゆえに、他者たちに法(教え)を説示する――しかして、義(道理)のためではなく。

僧団から完全に外にありながら、僧団の利得について言い争う。他者の利得に依拠して生きながら、恥知らずで(無慚)、恥じることがない。

或る者たちは、剃髪し、大衣を着ているが、そのように、〔比丘として為すべきことに〕専念することなく、〔他者からの〕利得と尊敬に〔心が〕耽溺し、尊ばれることだけを求める。

このように、種々なることが過ぎ去ったとき、あるいは、〔いまだ〕体得されていないものを体得するのは、あるいは、〔すでに〕体得されたものを守り続けるのは、そのように、今や、為し易きことではない。

棘ある状況において、履物なしで歩むように、このように、牟尼(沈黙の聖者)は、〔常に〕気づき(念)を現起させて、村を歩むがよい。

過去の〔心の〕制止者(瞑想修行者)たちを思念して、彼らの行持“おこない”を思い浮かべながら、たとえ、何であれ、〔今が〕最後の時であるも、不死の境処を体得するがよい。

この〔言葉〕を説いて、〔感官の〕機能(根)を修めた沙門は、さらなる生存が滅尽した〔真の〕婆羅門(人格完成者)たる聖賢は、サーラ〔樹〕の林において、完全なる涅槃に到達した(般涅槃した)。ということで――

 ……パーラーパリヤ長老は……。

 二十なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。

 そこで、摂頌となる。

 〔しかして、詩偈に言う〕「アディムッタ、パーラーパリヤ、テーラカーニ、ラッタパーラ、マールキャプッタとセーラ、バッディヤ、アングリ(アングリマーラ)、天眼者(アヌルッダ)、パーラーパリヤ、これらの十者の遍き栄誉ある〔長老たち〕があり、二十なるもの〔の集まり〕において、二百を超えること四十五の詩偈が有る」と。