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8 テーラガーター
第一の章
21.1. ヴァンギーサ長老の詩偈
家から家なきへと、まさに、離欲した者として〔世に〕存しているわたしに、これらの尊大な思考が、黒き者(悪魔)から〔やってきて〕まとわりつく。
大いなる射手の貴公子たちが、強弓をもつ手練“てだれ”の者たちが、〔勇猛で〕逃げることなき千の者を、遍きにわたり、完全に退散させるであろう〔ように〕――
それで、もし、また、これらの者たちよりも、より一層の女たちがやってくるとして、わたしを悩ますことは、まさしく、ないであろう。〔わたしは〕自己の法(教え)における確立者である。
なぜなら、わたしは、太陽の眷属たる覚者(ブッダ)の、この、涅槃に至る道を、一度、聞いたことがあるからだ。そこにおいて、わたしの意は喜んでいる。
パーピマント(悪魔)よ、もし、このように住しているわたしのもとへと、〔おまえが〕近づき行くなら、死魔よ、そのように、〔わたしは〕為すであろう。わたしの道すらも、〔おまえは〕見ない。
しかして、不満〔の思い〕を、さらには、歓楽〔の思い〕を、全てにわたり捨棄して、さらには、家〔の生活〕に依存した〔迷える〕思考を〔全てにわたり捨棄して〕、どこにおいても、〔欲の〕林叢“したばえ”(欲の思い)を作らないなら、〔欲の〕林叢なきことから、〔欲の〕林叢なき者となる。彼は、比丘である。
この〔世において〕、しかして、地に、宙に、それが何であれ、形態の在り方をしたものであり、地上に沈潜したものであるなら、一切は、常住ならざるもの(無常)であり、老い朽ちる。思慧ある者たちは、このように行知して、〔世を〕歩む。
見られ聞かれたものに、しかして、憤り〔の思い〕(反発の対象)に、さらには、思われたものに、諸々の〔心の〕依り所(依存の対象)に、〔世の〕人たちは拘束されている。ここに(この世において)、〔心が〕不動の者となり、欲〔の思い〕を取り除け。彼が、まさに、ここに(この世において)、〔欲望の対象に〕汚されないなら、彼を、〔賢者たちは〕「牟尼」〔と〕言う。
しかして、六十〔八の悪しき見解〕に依存し、〔迷える〕思考を有する者たちは、凡夫たることから、法(正義)ならざる者たちであり、固着ある者たちである。しかしながら、どこにおいても、〔特定の〕党派を〔自らの〕赴く所とする者(特定の党派に肩入れする者)として〔世に〕存することなくあるなら、しかして、〔心の〕汚れ(不正)を掴み取る者にはならない。彼は、比丘である。
善良で、長夜にわたり〔心が〕定められ、虚言なく、賢明で、羨望〔の思い〕なき者――牟尼は、寂静の境処に到達した。縁によって完全なる涅槃に到達した者は、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。
ゴータマ〔の弟子〕よ、思量“おもいあがり”を捨棄せよ――しかして、思量の道を、残りなく捨棄せよ――長夜にわたり後悔する者と成って、思量の道に〔心が〕耽溺した、〔まさに〕その者は。
隠覆〔の思い〕で〔心が〕隠覆され、思量に打ち倒された人々は、地獄に堕ちる。思量に打ち倒され、地獄に再生した人たちは、長夜にわたり憂い悲しむ。
道の勝者にして正しき実践者たる比丘は、何時であれ、まさに、憂い悲しまない。しかして、栄誉を、さらには、安楽を、〔彼は〕味わい楽しむ。真実“まこと”に、彼を、〔賢者たちは〕「法(真理)を見る者」と言う。
それゆえに、この〔世において〕、鬱屈なく、精励ある者は、〔五つの修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、清浄の者となる。しかして、思量を残りなく捨棄して、明知によって、〔苦しみの〕終極を為す者となり、〔心が〕静まった者となる。
〔アーナンダに尋ねた〕「〔わたしは〕欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕によって、焼かれています。わたしの心は、遍く焼かれています。ゴータマ(アーナンダ)よ、どうか、慈しみ〔の思い〕によって、〔貪りの炎を〕寂滅させる〔道〕を説いてください」〔と〕。
〔アーナンダは答えた〕「表象〔作用〕(想:認識対象を表象し概念化する働き)の転倒によって、あなたの心は、遍く焼かれています。貪欲を伴った美しい相(世において「価値がある」と評価される事象)を遍く避けなさい。
〔身体について〕美しくない〔とする想い〕(不浄想)によって、一境に善く定められた心を修めなさい。あなたに、身体の在り方についての気づき(念)が〔常に〕存しなさい。〔迷いの世について〕厭離〔の思い〕多き者と成りなさい。
さらには、無相〔の想い〕を修めなさい。思量の悪習(随眠)を廃棄しなさい。そののち、思量の寂止あることから、〔あなたは〕寂静なる者として、〔世を〕歩むでありましょう」〔と〕。
それがために自己を苦しめず、さらには、他者たちを害さないであろう、その言葉こそを、語るように。まさに、それは、見事に語られた言葉である。
愛ある言葉(思いやりの言葉)こそを、語るように――その言葉が、〔皆に〕喜ばれる〔言葉〕であるなら――その〔言葉〕が、諸々の悪しき〔言葉〕を取らずして、他者たちに語るべきところの、愛ある〔言葉〕であるなら。
まさに、真理は、不死の言葉である。これは、永遠の法(真理)である。真理において、さらには、義(道理)において、かつまた、法(教え)において、正しくある者たちは、〔自己を〕確立した者たちは、言う。
涅槃〔の境処〕を得るために、苦しみの終極を為すために、覚者(ブッダ)が語るところの、その、平安の言葉であるが、まさに、それは、諸々の言葉のなかの最上のものである。
深遠なる知慧の者は、思慮ある者は、道と道ならざるものの熟知者は、偉大なる知慧あるサーリプッタ(舎利弗:人名・ブッダの高弟)は、比丘たちに、法(教え)を説示する。
〔彼は〕簡潔〔の観点〕によってもまた説示し、詳細〔の観点〕によってもまた語る。サーリカー〔鳥〕(九官鳥)の鳴き声のように、即応即答〔の言葉〕が発せられる。
彼が、それを説示していると、〔蜜のように〕甘美な言葉を聞いている比丘たちは、〔愛着に〕染まり〔思わず〕聞き惚れてしまう麗美な声によって、心が躍り上がり、喜びあふれ、耳を傾ける。
今日、〔満月の〕十五〔日〕に、五百の比丘たちが、清浄のために集いあつまった。束縛するものと結縛するものを断ち切り、煩悶なく、さらなる生存が滅尽した聖賢たちである。
幕僚たちに取り囲まれた転輪王が、この大地を、遍きにわたり、海辺に至るまで訪ね回るように――
このように、戦場を征圧した無上なる先導者(ブッダ)に、弟子たちは――三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)ある、死を捨棄する者たちは――奉侍する。
〔彼らの〕全ては、世尊の子たちである。ここに、籾殻(中身のない者)は見い出されない。渇愛の矢を打ち砕く方(ブッダ)を、太陽の眷属(ブッダ)を、敬拝するがよい。
千を超える比丘たちは、善き至達者(ブッダ)に――〔世俗の〕塵を離れる法(教え)たる何ものも恐れない涅槃〔の境処〕を説示している方に――奉侍する。
〔彼らは〕正自覚者(ブッダ)によって説示された〔世俗の〕垢を離れる法(教え)を聞く。正覚者(ブッダ)は、比丘の僧団の尊ぶところの方は、まさに、美しく輝く。
世尊よ、〔あなたは〕象の名ある方として、聖賢たちのなかの第七の聖賢(過去七仏の第七)として、〔世に〕存している。〔あなたは〕まさしく、大いなる雨雲と成って、弟子たちに雨を降らせる。
昼住(昼の休息)から出て、教師(ブッダ)に相見えることを欲するがゆえに、偉大なる勇者よ、弟子のヴァンギーサ(人名)は、あなたの〔両の〕足を敬拝する。
〔世尊は〕悪魔の邪道なる道を征服して、諸々の鬱屈を破壊して、〔世を〕歩む。彼を――結縛からの解放を為し、〔物事を〕等分に区分けして、まさしく、〔何ものにも〕依存なき者を――見よ。
まさに、激流の超脱という義(目的)ある、無数〔の流儀〕に関した道を、〔世尊は〕告げ知らせた。しかして、その不死〔の境処〕が告げ知らされたとき、法(真理)を見る者たちは、〔自己が〕安立し、不動の者たちとなる。
灯火の作り手(ブッダ)は、〔あるがままに〕洞察して、一切の止住(認識対象の固着・停滞)の超越を見た。彼は、至高〔の境地〕を、しかして、〔あるがままに〕知って、さらには、〔あるがままに〕実証して、十の半分の者たち(最初に説法した五人の比丘)に説示した。
このように、法(真理)が見事に説示されたとき、法(真理)を識知している者たちに、何の怠り(放逸)があるというのだろう。それゆえに、まさに、世尊である彼(ブッダ)の教えにおいて、〔気づきを〕怠ることなく、常に〔彼を〕礼拝しながら、〔彼に〕学ぶように。
彼は、覚者(ブッダ)に従い覚った者――強き努力あるコンダンニャ長老は、間断なく、諸々の安楽の住と諸々の遠離〔の境地〕を得る者である。
それが、教師(ブッダ)の教えを為す弟子によって得られるべきであるなら、その一切が、獲得するところとなった――彼が、怠ることなく学んでいると。
大いなる威力ある者、三つの明知ある者、〔他者の〕心を探知することの熟知者――覚者(ブッダ)の相続者たるコンダンニャは、教師の〔両の〕足を敬拝する。
苦しみの彼岸に至り、山腹に坐す牟尼(ブッダ)に、弟子たちは――三つの明知ある、死を捨棄する者たちは――奉侍する。
偉大なる神通あるモッガッラーナ(目連:人名・ブッダの高弟)は、心によって探索する。彼らの心を、解脱したか依り所なきかと調べながら。
このように、一切の〔覚りの〕支分を成就し、苦しみの彼岸に至る牟尼(ブッダ)に、無数の〔優れた〕行相を成就したゴータマ(ブッダ)に、〔彼らは〕奉侍する。
雷雲が離れ去った天空において、垢(汚れ)を離れた月(満月)が、太陽のように光り輝くように、また、このように、アンギーラサ(古代の神人、ブッダの尊称の一つ)よ、偉大なる牟尼(ブッダ)よ、あなたは、福徳によって、一切世〔界〕に輝きまさる。
かつて、〔わたしたちは〕詩作に夢中になったがゆえに、村から村へ、町から町へと、渡り歩いた。しかして、一切諸法(現象世界)の彼岸に至る正覚者(ブッダ)を見た。
苦しみの彼岸に至る牟尼は、彼は、わたしに、法(教え)を説示した。法(教え)を聞いて、〔わたしたちは、心が〕清まり、わたしたちに、信が生起した。
わたしは、彼の言葉を聞いて、〔心身を構成する五つの〕範疇(五蘊)を、しかして、〔十二の認識の〕場所(十二処)を、さらには、〔十八の認識の〕界域(十八界)を、〔あるがままに〕知って、〔家から〕家なきへと出家した。
すなわち、彼らが、〔覚者の〕教えを為す者たちであるなら、〔世の〕女たち、および、男たちの、まさに、多くの者たちの義(利益)のために、如来たちは、〔世に〕生起する。
彼らが、生臭なきに至り〔生臭なきを〕見る者たちであるなら、比丘たち、および、比丘尼たちの、まさに、まさに、彼らの義(利益)のために、牟尼(ブッダ)は、覚り(菩提)に到達した。
生ある者たちへの慈しみ〔の思い〕によって、四つの聖なる真理(四聖諦)が、眼ある覚者(ブッダ)によって、太陽の眷属(ブッダ)によって、見事に説示された。
〔すなわち〕苦しみを、苦しみの生起を、しかして、苦しみの超越を、さらには、苦しみの寂止に至る聖なる八つの支分ある道(八正道)を。
このように、これらは、そのとおり説かれた。それらは、わたしによって、それそのとおりに見られた。わたしによって、自らの義(目的)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。
まさに、わたしにとって、善き訪問として存するものだった――覚者(ブッダ)の現前にあるわたしにとって。見事に区分された諸々の法(教え)における、〔まさに〕その、最勝のもの――〔わたしは〕それへと近づき行った。
神知の最奥義を得た者として、耳の界域(天耳界)を清めた者として、三つの明知ある者として、神通を得た者として、〔他者の〕心を探知することの熟知者として、〔わたしは〕存している。
〔長老が尋ねた〕「まさしく、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において、諸々の疑惑を断ち切る方である、〔まさに〕その、至上の知慧ある教師(ブッダ)に、〔わたしは〕尋ねます。アッガーラヴァ(地名)で、〔或る〕比丘が、命を終えました。〔世に〕知られ、福徳ある者で、自己が寂滅した者です。
世尊(ブッダ)よ、『ニグローダ・カッパ』という、その婆羅門の名は、あなたによって付けられました。彼は、あなたを礼拝しながら、〔苦からの〕解き放ちを期す者として、精進に励む者として、断固として法(真理)を見る者として、〔世を〕歩みました。
サッカ(釈迦)〔族〕の方(ブッダ)よ、一切に眼ある方よ、わたしたちは、〔その〕全てでさえもが、彼のことを、〔あなたの〕弟子のことを、了知することを求めます。わたしたちの〔両の〕耳は、〔あなたの答えを〕聞くために、〔今か今かと〕待ち構えています。あなたは、わたしたちの教師です。あなたは、無上なる方として、〔世に〕存しています。
わたしたちの疑惑を、断ち切ってください。それを、わたしに説いてください。広き知慧ある方よ、〔彼が〕完全なる涅槃に到達した者〔であるかどうか〕を、〔わたしたちに〕知らせてください。一切に眼ある方よ、まさしく、わたしたちの中において、語ってください――千の眼ある帝釈〔天〕(インドラ神)が、天〔の神々〕たちに〔語る〕ように。
それらが何であれ、この〔世における〕、諸々の拘束、諸々の迷妄の道、諸々の知恵なき徒、諸々の疑惑の状況は、それらは、如来を得ては、〔もはや〕有りえないのです。〔世の〕人たちのなかの最高者を、まさに、この、眼ある方を〔得てそののちは〕。
もし、まさに、人士たる方(ブッダ)が、風が層雲を〔吹き払う〕ように、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)を、しっかりと打ち払わないなら、一切世〔界〕は、まさしく、〔覆“おおい”に〕覆われた闇として存するでしょうし、光輝ある人たちでさえも、〔世を〕照らすことはないでしょう。
しかしながら、慧者たちは、灯火の作り手たちとして、〔世に〕有ります。勇者よ、わたしは、あなたを、まさしく、それ、そのとおりの方と思うのです。〔あるがままの〕観察者と知り、〔わたしたちは、あなたのもとへと〕近づき行ったのです。〔光なき〕衆のうちにあるわたしたちに、カッパ(ニグローダ・カッパ)のことを、明らかにしてください。
麗しき方よ、麗しき〔その〕言葉を、すみやかに発してください。白鳥が〔首を〕もたげて、美しく整えられた、まろやかな声で、おもむろに鳴くように。まさしく、〔わたしたちの〕全てが、〔心が〕真っすぐに赴いた者たちとなり、あなたの〔言葉を〕聞くでありましょう。
残りなく生と死を捨棄した清き方(ブッダ)に請い求めて、法(真理)を説いてもらいましょう。なぜなら、凡夫たちには、欲することを〔考究して〕為すことなく、しかるに、如来たちには、〔是非を〕考究して為すことあるからです。
〔正しく〕成就された説明は、これは、正しく真っすぐな知慧ある、あなたの把握するところです。この、〔あなたへの〕最後の合掌は、しっかりと手向けられました。至上の知慧ある方よ、〔答えを〕知っている者は、〔わたしたちを〕迷わせてはなりません。
彼此“ひし”における聖なる法(真理)を知って、至上の精進ある方よ、知っている者は、〔わたしたちを〕迷わせてはなりません。炎暑のさなか、炎暑に焼かれた者が、水を〔待ち望む〕ように、〔わたしは、あなたの〕言葉を待ち望みます。所聞(声)〔の雨〕を降らせてください。
それ(涅槃)を義(目的)として、カッパーヤナ(カッパ)は梵行(禁欲清浄行)を歩んだのですが、どうでしょう、それは、彼にとって、無駄ならざるものとして〔有ったの〕ですか。彼は、〔生存の依り所を残すことなく〕涅槃に到達したのですか、それとも、〔生存の〕依り所(身体)という残りものを有する者(有余依)として〔解脱したの〕ですか。〔彼が〕解脱者と成った〔経緯の〕とおりに、〔わたしたちは〕それを聞きたいのです」〔と〕。
かくのごとく、世尊は〔答えた〕「〔カッパは〕名前と形態(名色:現象世界)にたいする渇愛を、この〔世において〕断ちました。長夜にわたり悪しき習いとなった、黒き流れを〔断ちました〕。残りなく生と死を超えました」〔と〕。かくのごとく、五者(ブッダが最初に説法した五人の修行者)にとっての最勝なる方、世尊は説いた。
〔長老が言った〕「第七の聖賢(ブッダ)よ、この〔わたし〕は、あなたの言葉を聞いて、〔心が〕清まります。まさに、わたしの問い尋ねは、無駄ならざるものです(無駄ではなかった)。婆羅門(ブッダ)は、わたしを騙しませんでした。
覚者(ブッダ)の弟子(カッパ)は、〔覚者の〕説くとおり、そのとおりに為す者として、〔世に〕有りました。死魔の幻術師が広げた、堅固な網を、断ち切ったのです。
世尊よ、カッピヤ(カッパ)は、執取の最初“はじまり”を見ました。まさに、カッパーナ(カッパ)は、極めて超え難い死魔の領域を超え行ったのです。
最上の二足者たる方(ブッダ)よ、天の天たるあなたを、あなたの子(カッパ)を、〔わたしは〕敬拝します。善き生まれの偉大なる勇者(ブッダ)を、龍の正嫡たる龍(カッパ)を、〔わたしは敬拝します〕」〔と〕。ということで――
まさに、このように、尊者ヴァンギーサ長老は、諸々の詩偈を語った、という。
大なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。
そこで、摂頌となる。
〔しかして、詩偈に言う〕「七十なるものの集まりにおいて、即応即答〔の知慧〕あるヴァンギーサ長老が、まさしく、独りあり、他の者は存在せず、七十一の詩偈がある」と。
長老たちの詩偈は、〔以上で〕終了した。
そこで、摂頌となる。
〔しかして、詩偈に言う〕「千、および、三百六十の、それらの詩偈があり、しかして、二百、および、六十四の、長老たちが明示された。
覚者の子たる煩悩なき者たちは、獅子吼を吼え叫んで、平安の終極を得て、諸々の火の集塊のように、涅槃に到達した者たちとなる(般涅槃した)」と。
テーラガーター聖典は、〔以上で〕終了した。