>小部経典
8 テーラガーター
8.3. マハー・パンタカ長老の詩偈
教師(ブッダ)を、何ものも恐れない方(ブッダ)を、最初に見たとき、最上の人を見て、そののち、わたしには、畏怖〔の念〕(回心の思い)が有った。
やってきた吉祥を、彼が、〔両の〕手と〔両の〕足で突き放すなら、彼は、このような教師に達しても、〔結局は〕失うことになる。
そのとき、わたしは、しかして、子と妻を〔捨て放ち〕、さらには、財産と穀物を捨て放った。〔わたしは〕諸々の髪と髭を断ち切らせて、〔家から〕家なきへと出家した。
〔真の〕学びと正しい生き方(行持規定)を成就した者となり、諸々の〔感官の〕機能(根)において〔自己が〕善く統御された者となり、正覚者(ブッダ)を礼拝しながら、敗れることなき者として、〔わたしは〕住した。
そののち、わたしには、誓願が存した。心には、切望が〔存した〕。「渇愛の矢が打破されないうちは、寸時でさえも、坐すことはないであろう」〔と〕。
このように住している、〔まさに〕その、わたしの、精進と勤勉〔努力〕を見よ。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。
〔わたしは〕過去(前世)の居住を知る。天眼は清められた。〔わたしは〕阿羅漢として、施与されるべき者として、〔世に〕存している。解脱者として、依り所なき者として、〔世に存している〕。
そののち、夜の明け方、日の出に向けて、一切の渇愛を干上がらせて、結跏でもって〔覚者に〕近坐した(足を組み瞑想した)。ということで――
……マハー・パンタカ長老は……。
八なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。
そこで、摂頌となる。
〔しかして、詩偈に言う〕「マハー・カッチャーヤナ長老、シリミッタ、マハー・パンタカ、八なるものの集まりにおいて、これらの者たちがあり、二十四の詩偈がある」と。