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9テーリーガーター

14 三十なるものの集まり

14.1.  ジーヴァカのアンバ林にあるスバー長老尼の詩偈

ジーヴァカ(人名)の喜ばしきアンバ林(マンゴーの果樹園)へと行きつつある比丘尼のスバーを、質“たち”悪き者が妨げた。スバーは、彼に、このことを説いた。

〔長老尼は言った〕「〔あなたが〕わたしを邪魔して立ちはだかる、ということは、あなたにたいして、何か、わたしによる非礼があるのでしょうか。友よ、なぜなら、〔男の〕人が〔女の〕出家者に接触することは、適切ではないからです。

それが、わたしにとって重きものである教師の教えにおける、善き至達者(ブッダ)によって説示された学び〔の境処〕(戒律)です。完全なる清浄の境処ある者を、穢れなきわたしを、どうして、〔あなたは〕邪魔して立ちはだかるのですか。

混濁した心の者が、混濁なき者を、〔世俗の〕塵を有する者が、〔世俗の〕塵を離れた穢れなき者を、〔邪魔して立ちはだかります〕。一切所に意が解脱したわたしを、どうして、〔あなたは〕邪魔して立ちはだかるのですか」〔と〕。

〔男が言った〕「さてまた、〔年若き〕青年として、さらには、〔形姿に〕悪しきところなき者として、〔あなたは〕存しています。あなたにとって、出家することが、何を為すというのでしょう。黄褐色の衣料(袈裟)を捨て置きなさい。さあ、花ひらいた林のなかで、〔わたしたちは〕喜び楽しむのです。

そして、芽吹いた木々は、花粉とともに、〔蜜のように〕甘美な〔香り〕を、全てにあまねく、香りただよわせます。最初の雨降る季節(初春)は、楽しきものです。さあ、花ひらいた林のなかで、〔わたしたちは〕喜び楽しむのです。

そして、頭頂が花ひらいた木々は、風に揺られ、雄叫びをあげるかのようです。〔あなたが〕林のなかに独りで入って行く、というのなら、あなたに、何の喜びが有るというのでしょう。

猛獣の群れが慣れ親しむところへと、発情した象や騒ぎ立てる象がいるところへと、うらさびしい恐怖の大林へと、道連れなしで行くことを、〔あなたは〕求めます。

輝く〔素材〕で作られた人形のように、チッタラタ〔園〕における仙女のように、〔あなたは〕渡り歩きます。喩えるなら、カーシー〔産〕の繊細で、麗美な、諸々の衣によって、〔あなたは〕美しく輝きます。

〔わたしたちが〕森の中に住む、というのなら、わたしは、あなたの支配に従い行く者として存するでありましょう。妖精のつぶらな眼をした方よ、あなたよりも、より愛しき生き物は、わたしには、まさに、存在しません。

〔あなたが〕わたしの言葉を為すことになる、というのなら、〔あなたは〕安楽の者となり、さあ、家に住んでください。〔あなたは〕無風の高楼に住む者となり、女たちは、あなたのために、奉仕を為せ。

諸々のカーシー〔産〕の繊細な〔衣〕を〔身に〕付けてください。そして、花飾や顔料で〔身を〕装ってください。多くの黄金や宝珠や真珠を、様々な種類の装飾品を、あなたのために作ります。

塵〔の汚れ〕がしっかりと洗い清められた覆“おおい”があり、毛布と綿入れを広げ、美しく、新しく、栴檀〔の木〕で装飾され、〔その〕芯の香りがする、高価な臥所に登ってください(寝てください)。

さらには、水のなかから伸び出た青蓮が、それが、人間ならざる者(精霊)の慣れ親しむところであるように、梵行者(禁欲清浄行の実践者)よ、このように、〔独りでいる〕あなたは、自らの諸々の肢体において、〔虚しく〕老へと赴くでありましょう」〔と〕。

〔長老尼は答えた〕「死骸(汚物)に満ち、墓場を増大させるものであり、破壊の法(性質)ある、〔この〕死体“からだ”について、ここに、あなたは、何を真髄と思ったのですか――それ(死体)を見て、〔あなたは〕意が離れ、見とれていますが」〔と〕。

〔男が言った〕「さてまた、山の中にいる、雌鹿の〔両の〕眼のような、妖精の〔両の眼の〕ような、あなたの〔両の〕眼を見て、わたしの、欲望の歓楽は、より一層、増大します。

あなたの、青蓮の頭頂の如き〔両の眼〕を〔見て〕――垢(汚れ)を離れ黄金にも似た〔その〕顔にある、あなたの〔両の〕眼を見て――わたしの、欲望の対象は、より一層、増大します。

清浄なる見“まなざし”の方よ、長き睫毛の方よ、たとえ、遠くに行ったとしても、〔あなたのことを〕思い浮かべます。妖精のつぶらな眼をした方よ、あなたの眼よりも、より愛しきものは、わたしには、まさに、存在しません」〔と〕。

〔長老尼は答えた〕「道ならざる〔道〕によって行くことを、〔あなたは〕求めます――月を玩具として、〔あなたは〕求めます――メール〔山〕(須弥山)を跳び超すことを、〔あなたは〕求めます――覚者(ブッダ)の子(仏弟子)をつけねらう、〔まさに〕その、あなたは。

今や、わたしにとって、たとえ、そこに、〔それが〕存在するべきであるとして、天〔界〕を含む世〔界〕において、貪り〔の思い〕は、まさに、存在しません。また、それが、どのようなものであるかも、〔わたしは〕知りません。しかして、〔覚者の〕道によって、〔貪りの思いは〕根ごと打ち砕かれたのです。

〔わたしにとって、貪りの思いは〕火坑から放出された〔火炎〕のようであり、〔眼の〕前に置かれた毒鉢のようであり、また、それが、どのようなものであるかも、〔わたしは〕見ません。しかして、〔覚者の〕道によって、〔貪りの思いは〕根ごと打ち砕かれたのです。

その者に、〔あるがままに〕注視されざるものが存在するなら、あるいは、教師(ブッダ)が〔いまだ〕近侍されざる者として存在するなら、〔覚者と縁なき〕そのような者を、あなたは、誘惑しなさい。〔あるがままに〕知っているこの〔わたし〕を〔誘惑しても〕、〔まさに〕その〔あなた〕は、〔虚しく〕打ちのめされる〔だけのこと〕。

罵倒されても敬拝されても、さらには、楽しかろうが苦しかろうが、まさに、わたしの気づき(念)は、現起しています。「形成されたもの(有為)は、美しくない(価値がない)」と知って、まさしく、一切所で、〔貪りの思いが〕意を汚すことはありません。

〔まさに〕その、わたしは、善き至達者(ブッダ)の弟子であり、八つの支分ある〔聖なる〕道(八正道)を乗物として行く者です。矢は引き抜かれ、煩悩なき者となり、〔人のいない〕空家に赴き、わたしは、〔覚者の教えを〕喜び楽しみます。

種々様々な〔彩色が施された〕人形を、あるいは、諸々の木の操り人形を、まさに、わたしは見ました。諸々の紐やら諸々の釘やらで結び合わされ、様々な種類に踊らされる〔人形〕です。

それが、紐と釘が引き抜かれ、捨て去られたとき、ぼろぼろになり、ばらばらにされたとき、〔ただの〕断片として作り為されたものに〔喜びを〕見い出すべくもなく、それで、どこに、意を確たるものとするのですか。

その喩えのように、わたしの諸々の肉身“からだ”なるものは〔存在し〕、それらの法(性質)を除いて、〔何ものも〕転起しません(断片としての肉体が活動しているだけのこと)。諸々の法(性質)を除いて、〔何ものも〕転起せず、それで、どこに、意を確たるものとするのですか。

黄の絵具で塗布され、様々な〔彩色で〕作り為された〔絵〕を、壁に見たように、そこに、あなたの転倒した見があるのです。人間の想い(想:表象・概念)は、義(意味)なきものです。

『至高のものである』と作り為された幻想のような、夢の中での黄金の木のような、〔愚かな〕人たちの中で〔見せる〕影絵のような、暗愚で空虚なものへと、〔あなたは〕近づき行きます。

〔眼は〕空洞“うろ”のなかに置かれた球のようなものです。〔その〕中には、涙を有する泡粒があります。そして、ここに、目脂が生じます。また、眼の種類に様々な種類があるとして、〔ただの〕球体です」〔と〕。

見た目が典雅で、意に執着なき〔比丘尼〕は、〔自らの眼を〕引き抜いて、しかして、〔執着の思いに〕陥らなかった。「さあ、その眼を、あなたのもとへと運び去りなさい」〔と〕、まさしく、ただちに、その男に与えた。

しかして、彼の貪り〔の思い〕は、まさしく、ただちに止んだ。しかして、そこにおいて、〔彼は〕彼女に謝罪した。〔男が言った〕「梵行者よ、〔あなたに〕安穏が存しますように。このようなことは、ふたたび、有りますまい。

このような人を襲って、燃え盛っている火を抱いて〔傷つく〕ようなもの、毒蛇を掴んで〔傷つく〕ようなもの。どうぞ、また、〔あなたに〕安穏が存しますように。どうか、〔わたしを〕許してください」〔と〕。

しかして、〔男から〕解き放たれた、その比丘尼は、そののち、優れた覚者(ブッダ)の現前へと赴いた。優れた功徳ある〔覚者の〕特相を見て、〔彼女の〕眼は、過去“もと”のとおりに存した。ということで――

 ……ジーヴァカのアンバ林にあるスバー長老尼は……。

 三十なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。