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9テーリーガーター

13.5.  鍛冶屋の娘のスバー長老尼の詩偈

清浄の衣をまとう、青年のわたしが、かつて聞いたところの、〔覚者の〕法(教え)であるが、〔まさに〕その、わたしが、〔気づきを〕怠らなくあると、〔聖なる〕真理の〔あるがままの〕知悉(現観)が有った(法を確信し理解した)。

そののち、わたしは、一切の欲望〔の対象〕にたいする激しい不満〔の思い〕に到達した。〔わたしは〕身体が有ること(有身)のうちに恐怖を見て、離欲〔の境地〕こそを熱望する。

わたしは、親族衆を捨棄して、さらには、奴隷や労夫たちを、諸々の富み栄える村や田畑を、諸々の喜ばしきものを、諸々の歓喜したものを――

342.(340・341) 少なからざる自らの所得を捨棄して、〔今や〕わたしは、出家者として〔存している〕。このように、信によって、〔家を〕出て、見事に知らされた正なる法(教え)において。

彼が、金や銀を捨て放って〔そののち〕、ふたたび〔家に〕帰り来るなら、これは、彼にとって、適切なることにあらず。まさに、無所有〔の境地〕を切望するべきである。

銀は、あるいは、金は、覚り(菩提)のためにあらず、寂静〔の境地〕のためにあらず。これは、沙門にとって、適切なるものにあらず。これは、聖なる財にあらず。

これは、〔人を〕貪欲ならしむものであり、さらには、驕慢ならしむものであり、迷妄ならしむものであり、〔世俗の〕塵を増大させるものであり、危惧を有するものであり、苦労多きものである。しかして、ここに、常久と止住は存在しない。

ここにおいて、〔欲に〕染まり、かつまた、〔気づきを〕怠り、〔怒りや憎しみで〕意が汚染された人たちは、互いに他と反目し、確執を多く作り為す。

殴打、結縛、〔心の〕汚れ(煩悩)、〔体力の〕衰退(老衰)、憂いと嘆き――諸々の欲望〔の対象〕のうちに囚われた者たちには、多くの災厄が見られる。

親族たちよ、あるいは、朋ならざる者たちよ、〔まさに〕その、わたしを、どうして、あなたたちは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに結び付けるのだ。わたしを、出家者と知れ。諸々の欲望〔の対象〕のうちに恐怖を見る者と〔知れ〕。

諸々の煩悩は、黄金(貨幣)や金では、完全に滅尽されない。諸々の欲望〔の対象〕は、朋“とも”ならざる者たちであり、殺戮者たちであり、敵たちであり、矢と結縛である。

親族たちよ、あるいは、朋ならざる者たちよ、〔まさに〕その、わたしを、どうして、あなたたちは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに結び付けるのだ。わたしを、出家者と知れ。剃髪し、大衣を着た者と〔知れ〕。

〔戸口に〕立って受ける〔行乞の〕食、残飯と、糞掃衣(ぼろ布)の衣料と――これは、まさに、わたしにとって、適切なるものであり、家なき者にとっての近しき依所である。

それらが、諸天のものであれ、さらには、それらが、人間たちのものであれ、諸々の欲望〔の対象〕は、偉大なる聖賢たちによって吐き捨てられた。彼らは、平安なる境位において解脱した者たちである。彼らは、不動の安楽を得た者たちである。

それらのうちに、救いが見い出されないなら、わたしが、諸々の欲望〔の対象〕と集いあつまることがあってはならない。諸々の欲望〔の対象〕は、朋ならざる者たちであり、殺戮者たちであり、火の集塊“かたまり”の如きものであり、苦しみである。

これは、障害であり、恐怖である。悩苦を有するものであり、荊“いばら”を有するものである。これは、貪欲であり、さらには、極めて不正なるものであり、〔人を〕迷妄ならしむ門の大いなるものである。

諸々の欲望〔の対象〕は、災禍であり、恐怖の形態あるものであり、蛇の頭の如きものである――それらを、愚者たちが喜び、暗愚と成った〔迷える〕凡夫たちが〔喜ぶ〕として。

まさに、欲望の汚泥にはまった人たちは、世における、多くの無知なる者たちである。生、および、死の、完全なる終極を、〔彼らは〕知らない。

人間たちは、悪しき境遇(悪趣)に至る道を、欲望という〔悪しき〕因ある〔道〕を、自己に病をもたらす〔道〕を、まさに、多く実践する。

このように、諸々の欲望〔の対象〕は、朋ならざる者を生むものであり、〔人を〕苦しめるものであり、〔心の〕汚染(雑汚)であり、〔虚妄なる〕世財であり、〔迷いの者たちが〕結縛されるべきものであり、死の結縛である。

諸々の欲望〔の対象〕は、〔人を〕狂気ならしむものであり、誘惑するものであり、心の惑乱であり、〔迷える〕有情たちの〔心の〕汚染のために、悪魔によって、すみやかに仕掛けられた〔罠〕である。

諸々の欲望〔の対象〕は、終極なき危険であり、苦痛多きものであり、大いなる毒あるものであり、悦楽少なきものであり、相克を為すものであり、白分(月が満ちる期間)を干上がらせるものである。

〔まさに〕その、わたしが、このような欲望〔の対象〕を因とする災厄を作り為して、その〔不幸〕へと戻り行くことはないであろう――常に、涅槃〔の境処〕に喜びある者として。

諸々の欲望〔の対象〕にたいし相克を為して、〔心が〕冷静“おだやか”な状態を待ち望む者となり、〔気づきを〕怠らず、〔わたしは〕住するであろう――一切の束縛するものの滅尽〔という境地〕において。

憂いなく、〔世俗の〕塵を離れ、平安で、聖なる八つの支分ある、真っすぐな、その道(八正道)に、〔わたしは〕従い行く――その〔道〕によって、偉大なる聖賢たちが、〔彼岸へと〕超え渡ったのだ。

この者を見よ――法(正義)に依って立つ者である、鍛冶屋の娘のスバー(人名)を。〔彼女は〕不動の〔境地〕を成就して、木の根元で瞑想する。

今日が第八〔日〕となる出家者であり、信ある者であり、正なる法(真理)によって美しく輝く者である。ウッパラヴァンナー(人名)に教え導かれた者であり、三つの明知ある者であり、死を捨棄する者である。

〔まさに〕その、この比丘尼は、自由の者であり、借りなき者であり、〔感官の〕機能(根)を修めた者であり、一切の束縛について束縛を離れた者であり、為すべきことを為した者であり、煩悩なき者である。

生類の長たる帝釈〔天〕(インドラ神)は、天〔の神々〕の群れとともに、神通によって近しく赴いて、彼女を、鍛冶屋の娘のスバーを、礼拝する。ということで――

 ……鍛冶屋の娘のスバー長老尼は……。

 二十なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。