>小部経典
9テーリーガーター
6 六なるものの集まり
6.1. 五百ばかりの長老尼の詩偈
〔弟子に、長老尼が言った〕「彼の、やってきた道を、あるいは、去って行った〔道〕を、〔あなたは〕知りません。では、どうして、〔知らざる所から〕やってきた、その有情を、『わたしの子である』と、〔あなたは〕泣き叫ぶのですか。
しかしながら、まさに、彼の、やってきた道を、あるいは、去って行った〔道〕を、〔あなたが〕知るなら、彼を憂い悲しむことはありません。なぜなら、このような法(性質)あるのが、生ある者たちであるからです。
〔彼は〕乞われることなく、そこからやってきました。〔彼は〕許されることなく、ここから去って行ったのです。どこかしらからやってきて、たしかに、数日のあいだは住んでいたとして。ここからまた、他〔の道〕によってやってきた者は、そこからまた、他〔の道〕によって去って行きます。
亡者は、人間の形態(色)で輪廻しつつ、去って行くのです。やってきたように、そのように、〔彼は〕去って行ったのです。そこに、何の嘆き悲しみがあるというのでしょう」〔と〕。
〔弟子は答えた〕「まさに、わたしの、心臓(心)に依拠する、〔凡夫には〕見難き矢を、〔あなたは〕引き抜いてくれました。憂い悲しみに打ち負かされたわたしのために、〔まさに〕その〔あなた〕は、子〔の死〕の憂い悲しみを除き去ってくれたのです。
〔まさに〕その、わたしは、今日、矢が引き抜かれた無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者として〔存しています〕。覚者(仏:ブッダ)に、しかして、法(法:ダンマ)に、さらには、僧団(僧:サンガ)に、牟尼を帰依所に、〔わたしは〕近づき行きます(仏法僧の三宝に帰依する)」〔と〕。ということで――
まさに、このように、五百ばかりの長老比丘尼たちは……略……。